走り続けた貴方達へ贈る、祝福のダイアローグ――『天気の子』を観て

先日公開された新海誠監督最新作、『天気の子』。これまで新海監督が手掛けられてきた作品群と違っていたのは、まるでどこまでも走り抜けていくような迷いのなさでした。想いの変遷、機微、物語の転換ーー。その都度で描かれた雨粒の音、波紋の違いが差し示していたように、そこに何一つ葛藤がなかったのかと言われればそれは当然違うのだと思いますが、これまでの主人公像を辿れば彼らに反し帆高が一つ一つの選択に多くの時間を費やしていなかったのはとても新鮮に映りました。

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それは今作におけるモノローグの少なさからも分かるところだと思います。それこそ初期作である『ほしのこえ』を筆頭に、モノローグと音楽により描かれる多大な感傷性は新海監督の持ち味でもありました。特に『彼女と彼女の猫』は終始モノローグで構成され、最後の一瞬にのみ重なる各々の台詞に祈りを託していたのが、とても美しくも儚く描かれていました。

 

ですが、『言の葉の庭』『クロスロード』『君の名は。』と各作品を経ることで、新海監督作品はそういったモノローグによる自己的な感傷性から、ダイアローグによって生まれていく互い (二人だけ) の共感覚的な部分を描くことに注力するようになっていきます。簡単に言うのなら “二人は通じ合っていた / いるのだろう” という願いから、“その瞬間は間違いなく通じ合っていた” ということをより色濃く一瞬でも描くようになったということなのです。

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それは新作に寄せたこの予報冒頭、その約1分までの間にも描かれていました。これまでの新海誠作品で描かれてきたことの変化を繋ぎとめていく語り口。自分自身への内向的な語りから、相手を見据えるまなざしを持つことで浮かび上がる “誰か” との距離感。そして『天気の子』はさらにその先へ行くんだと、今思えばそういう熱意を感じずにはいられない編集になっていましたし、それはおそらく意図してのことだったのだろうと思います。

 

これまでの手法であったモノローグによる構成はその成を潜め、徹底した会話とやり取り、互いの感情の積み重ねにより物語が描かれていたことからは、もはや本作が “ダイアローグのその先” を描いていたと言っても過言ではないはずです。分からないこと、隠していること、秘密にしたいこと。そういうことを一つ一つ相手に伝え、伝えられ、その先で感情が輪郭を持ち始める。むしろ、分からない漠然としたものに立ち尽くしたり、立ち向かうのではなく、輪郭を持ちゆく感情に向け走り続けるからこそ『天気の子』はこれまでの作品とはまた違う質感を持った “立ち止まらない映画” になっていたのだと思います。

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そしてそれは立ち止まること、休息することを一つテーマとして描いた『言の葉の庭』とは対比的な物語にすらなっていました。登場人物たちの年齢的な差異はあれ、むしろあの作品は休むことにとても寛容で、特に物語前半部は雨に打たれることを善しとはしない映像が目立っていました。これまでも監督作品では多く描かれてきた雨宿りのシーンですが、それを凝縮したような映像美と感傷性に堪らない気持ちにさせられてしまったのを今でも鮮明に覚えています。まさに、感傷と思慮を描いた奥深いシチュエーション。ですが、それらを特に劇的に描いていたのは他でもない終盤、階段の踊り場でのシーンでした。ヒールを履かず裸足になる雪野と、それを抱き留める孝雄。降りるか、登るか (進むか、戻るか) の選択を強いる階段というモチーフの中で、彼らが選んだのは踊り場での抱擁。今この瞬間こそはしがらみを捨て素直になるという、二人だけの安らぎの場での逢瀬だったのです。

 

ですが、何度も言うように『天気の子』は “走り続ける物語” です。だからこそ、帆高が刑事たちの包囲を潜り抜け向かった非常階段、窓から飛び降り着地した踊り場が崩れ去ったのはきっとそういうことなのでしょう。まるで「お前に休んでいる暇はない、動け、走れ」と世界が彼に言い放つようなコンテワーク。非常階段を昇る際のカメラワークはまるで『言の葉の庭』のオマージュにも感じてしまいますが、そこで描かれていたのはやはり走り続ける主人公の姿だったのです。それはまるで世界が走り続ける彼を見守っているようにさえ感じてしまう映像の妙でした。

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それこそ、走ることに視点を置けば、それは『君の名は。』でも顕著として描かれた行為です。ですが、あの作品には躓き、転び、立ち止まり、一度忘れかけてしまうという行為がシークエンスの中に盛り込まれていました。それに反し、『天気の子』の終盤シーンはどれだけ壁に阻まれようと、息を切らそうと、一つの目的のため手段を選ばず走り続けるのです*3。なにより、それはその人にとっての世界を守るためではなく、たった一人を見つけるため、守るための行為であったこと。それが『君の名は。』との大きな違いであり、描いていたことの差異でもあったはずです。

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そして、それはきっと新海監督が渾身の想いを込め託した祈りに他ならないのでしょう。帆高に対し、夏美さんが多くの想いを込め「走れ!」と叫んだことも同じです。なぜなら、彼女や須賀といった「大人になると大事なものの順番を変えられなくなる」者たちの本当の気持ちをも帆高は背負い走っていたからです。自分には出来ていないこと、出来なかったこと。一人の少年が背負うには余りに大きな想いですが、そういった “青春を既に通過してしまった” 人々の想いを誰かに仮託していくのはまさしく新海監督作品に流れる奔流でもあるはずです。

 

まただからこそ、それは過去の監督作に登場した人物たちの想いとも間接的に繋がっていくことになるのです。『雲のむこう、約束の場所』で描かれた一瞬の再会。『星を追う子ども』にて描かれた、叶うことのなかった森崎の悲願。かつて、届かないものにそれでも手を伸ばし続けた彼ら、彼女らの姿。そうして大人になり、ある日の過去に目線を向けてしまうそれぞれの想いが、帆高に言うのです。ただ一言、「走れ」と。それはきっと夏美さんや須賀が仮託したものと同じ輪郭をもって語ることの出来る “願い” なのです。

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もちろん、それは『君の名は。』を初めて鑑賞した際にも同様に感じたものでした。彼らの想いが正しかったこと、その姿が美しかったと思えたことをまるで肯定するかのように走り続ける三葉の姿。彼女を見つめながら、ただただ心の中で「証明してくれ」と反芻していたのを昨日のことのように覚えています。だからこそ、そこへ新海監督が託したものになにか『天気の子』との違いがあったのかと聞かれれば、それは「同じだった」としかきっと自分は答えられないでしょう。

 

しかし、前述したように今作では “たった一人のために走ること” “手を伸ばすことを決して止めようとしない” その姿にこそ明確な違いがありました。なにか漠然としたものや大きく括ったものに対してではなく、明確にあなたのためだけへ視線を送ること。想いを馳せること。そしてそれはとても美しく、正しいのだということーー。この作品を『秒速5センチメートル』へのアンサーフィルムとして捉えることが出来たのも、そういうことなのです。天と地という圧倒的な物理的距離に引き離された『ほしのこえ』に向け、想うことは、願うことは無駄じゃないと叫んでくれたように感じられたのは、そういうことなのです。

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冒頭から帆高と陽菜に対し、前へ向かうためならば雨に打たれることも厭わないことを描いていたのも、もしかすればそんな “立ち止まらないこと” “走り続ける” ことへ寄せてのことだったのかも知れません。予報でも強調的に描かれた「強く願った」というフレーズもきっと同じことです。願うこと、祈ることというのは、それほどまでに新海監督にとって大きなものであり、だからこそそれを突き抜け描いた本作には集大成のような感慨を感じたのだと思います。

 

なにより今までは誰かが誰かに、誰かが何かへ手を伸ばすことが多かった作品群にして、両者が手を差し伸ばし、想いを届け合おうとするシーンには、ついぞ胸を焦がされます。新海誠監督作に通底する “手を伸ばし続ける” という普遍のテーマ性が、互いの手を掴み、離さないとするまでを踏み込み描いた意味の大きさ。それはまさしく、想いや言葉を積み重ねたダイアローグの先にある “願いの結実” に他ならないのです。

 

そして、映される地球の遠景ショット。東京上空に渦巻く積乱雲の群れはある種、これまでも描かれ続けてきた喪失の象徴だったのだと思います。ですが、そんな地球の背後から太陽の光が漏れ、巨大なハレーションが起きるのはきっとそうした光景さえも美しいと捉える新海監督の不変の信念であり、“二人だけ” に向けた祝福でもあったのでしょう。それは「世界のカタチを決定的に変えてしまった」としても尚、少年少女たちの想いは、願いは、聞き届けられてもいいと語り掛ける余りにも切実で、振り切れた祈り。でも、それでいいのです。だって私は、本当はそういう物語も望んでいたのだから。届かないものに手を伸ばすことを肯定して欲しかったのだから。

 

これまで強大な現実と、新海誠という一つの情念が敷いたレールの上で手を伸ばし、走り続けた “貴方たち” へ贈られた祝福。そして他でもなく、新海誠作品においては誰もが成し得なかった世界を狂わしてでも、たった一人の手を引いてみせた帆高と陽菜に贈られた最大級の祝福*4。モノローグからダイアローグへ。内に籠る想いを反芻するのではなく、伝えるということ。「自分のために願ってーー」。それこそがきっと、新海監督が語り掛けたかった全てなのだろうと今は感じています。

 

そして、自分のために願えた者たちに対し、再度この言葉が降り注ぐのでしょう。

「きっとこの先も大丈夫だと思う、絶対」と。そんな祈りに身を寄せられたことを、今は嬉しく思っています。

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 

*1:新海誠監督 個人アカウント より

*2:東宝MOVIEチャンネル より

*3:須賀や刑事たちに足止めはされてしまいますが、銃を手に取ってでもあの場所に向かおうとする姿は “走り続ける” ことと同等のものとして映ったはずです

*4:雲のむこう、約束の場所』がそれに最も近いのでしょうが『天気の子』はさらに先へと前に踏み込んだと思っているので、そう表記にしました。ある意味、今作は『雲のむこう、約束の場所』を含めたあらゆる監督作へのリベンジだと感じます

『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』1話の演出について

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ダッチアングルや広角レイアウトなど凝った画面が多く印象に残った1話。平凡な日常の一コマでも角度をつけ、位置関係、奥行きに拘ればそれだけで “何か” が受け手に伝わっていくことを知らしめるようなフィルムになっていたと思います。もちろん、どれだけの意図が含まれていたのかは図りかねるところですが、平坦なレイアウトではなくその世界に在るものを広く見せることで没入感を与える効果、現在がどういう状況にあるシーンなのかということを明瞭として伝える意味などはやはり大きかったはずです。

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くわえて、ロングショットを頻繁に挟むことで、一人一人の物語へ焦点を絞っていくような質感がより今話の良さを引き立てていたと思います。ナメを使った画面の効果もあり、どこか覗き見るような、遠巻きに登場人物たちの行動や心の内を見透かしていくようなレイアウト・構図が情感を生み出していました。このシーンにおいては劇伴含め前者をドラマチックに、後者をコメディ寄りに描いていたこともあり、前述したダッチアングルやパースのきつい画面がより主人公の慧輝へスポットを充てるよう作用していたのが面白かったです。まさしくアングル・レイアウトの機微が心の機微に繋がっていくカットだったと思います。

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ロングショットにおいてもやはり効果的に使われていきます。遠巻きに映し、画面内に被写体を佇ませることで世界を二人だけのものにしているような趣きがありました。やり取り (会話) 自体の多くは寄りで描かれていますが、その節々でカメラを引く意味は、彼らから醸し出される情感を汲み取る上でとても大切であったはずです。ロングショットへの切り返しも今回多く使われていた演出。最初のカットでは二人の関係性 (会話の間) を映し、次のカットでは一人残された主人公の心情、思考に耳を傾ける 。そういった映像の運び方がフィルム全体の良さをさらに引き締めていました。

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こういったカットの使い方も同様です。寄りのカットを挟みつつ、ロングショットへ切り返していく。ロングショットの中でも芝居や会話を描き、広い画面にぽつんと映る二人の関係性、親密感を浮き彫りにしていく。締めのカットも巧く、ここでも広く場所・風景の全体像、奥行きを映すことで、シーン毎における “二人だけの世界を覗いているような感覚” をより顕著に描いていました。

 

なにより、それは1話のテーマでもあった各々のヒロインの心情を探る物語の流れそのままの映像演出であった、ということなのです。ラブレターを書いたのは誰なのかという疑問。それを探るための心情への接近。だからこそ多岐に渡るショット・画面構成を駆使し、ぐっと登場人物たちにスポットを当てていく。今話における独特な空気感、情感の描かれ方の多くはそういった見せ方に寄るところが大きかったはずです。

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広角、奥行き、ロングショット、前景。それぞれのカットで絵的な良さの違いはありますが、ここで描いていたものはやはり人物や関係性にフォーカスを寄せることなのだと思います。空間を描くからこそ、距離をとりカメラを置ける。距離をとるからこそ描ける人物像や関係性がある。そういった見せ方が本当に巧く素敵で、だからこそ物語へ没入出来るというのはこのフィルムの強度そのものに他なりません。

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終盤のシーンでも不意に挟まれるロングショットが緊張感、空気感をより良くしていました。ミドルショットでも背景に奥行きを作ることでロングショットで感じられていたものと同じくらいの “二人だけの空間性” を描き出していました。遡れば劇伴の使い方、台詞回しなども多く今話の質感に影響を与えていたとは思いますが、前述してきたように
こういったカットが映像全体に与えた影響はやはり非常に強かったはずです。最後はラブコメ的に、タイトル通りの面白さを描いて終わった本編でしたが、やはり異質な空気感を生み出したフィルムの組み立て方は非常に観ていて惹き込まれるものでした。作品の第1話としてもとても素晴らしい挿話だったと思います。

 

コンテ演出はいまざきいつきさん。いまざきさんと言えば『あいまいみー』の監督としてのイメージが強い一方、今回の話を通して以前いまざきさんの演出回に心酔したことをグッと想い起されたのは自分としても大きなサプライズでした。

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それが『旦那が何を言っているかわからない件』11話。正直、冒頭でいまざきさんが監督をやっているのを知った時、真っ先に重ねていたのがこの挿話でした。ファーストカット含め非常に多くのカットで描かれる奥行きのある画面とそれらが次第に主人公の心情にリンクしていくコンテワークは圧巻。この年に放送され視聴したアニメの中でも非常に印象に残っていた回でした。*1

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きつめのパース、広角のカットの中に佇む自分と関係性の描写という点でも『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』1話と重なる部分が多くあります。撮影の使い方も巧く、そういったことも大なり小なり今回の作品に生きていたと思います。サブタイトル含め抜群の構成と映像から名話と言って過言ではないこの挿話。いまざきさんの演出を振り返る上でこの作品を思い出させてくれたことにも今作には感謝したいと思います。

 

また、ここでは触れませんが他にも『旦那が何を言っているかわからない件 2スレ目』8話や、『おくさまが生徒会長!』4話・5話などいまざきさん演出回は素敵な挿話が多く演出参加歴に並んでいます。切れのあるロングショット、奥行きがあり関係性を伝えてくれる映像、絵的に凝った観ているだけで “何か*2” を感じてしまうカットがいまざきさん演出の素晴らしさだと思っていますが、監督として携わる今回の新作がどういった作品になっていくのか。今からとても楽しみです。

*1:参考:2014年テレビシリーズアニメ話数単位10選 - Paradism

*2:緊張や情感、不安、時に楽しさ

『盾の勇者の成り上がり』22話・25話の終盤シーンについて

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以前から触れたいと思っていた挿話がありました。それが22話終盤のシーン。「尚文様は居なくならないですよね?」とラフタリアが尚文に問いかける場面でした。

 

ラフタリアが抱いていたこういった感情はこれまでも何度か描かれ、話が進むごとにその深刻さは増していたと思います。それが画面において顕在化されたのがこのカットであり、フレーム内フレームにおいて分断された二人の距離、空間が底知れぬ彼女の不安を描いていました。まだ幼く話が深くは読み取れないフィーロは、尚文が返した言葉に納得をしすぐに境界を越えますが、以前ラフタリアは取り残されたまま。そのまま彼女が右フレーム内に取り残されたままこのカットが終るのも印象深く、動かないラフタリアとその間に情景を感じられたのがとてもエモーショナルでした。しかし、このカットは尚文の葛藤をも描いていたのだと思います。分厚い瓦礫、境界に分断された世界で自分はどうするべきなのか、どうしたいのか。二人の関係性とその深度を主軸に描いてきた本作だからこそ、心情を描くという点において、どちらか一方ではなく互いの心に寄せたカットが描かれていたのは、むしろとても自然なことだったのでしょう。

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そういった尚文の心情はこの直後のカットでも描かれていたはずです。フィーロとラフタリアに両脇を引かれる尚文。その光景には微笑ましさすら感じてしまいますが、彼の揺れる心情を思えばこそ若干の複雑さを感じてしまうのはやはり否めません。空抜けしていくPANと、上空を舞う3羽の鳥。この余白とモチーフに残される余韻がより感傷的に今 “この瞬間” の居心地の良さと元の世界に帰るという彼の目的を天秤に乗せ計るのだから、なんとも言えないセンシティブな感情を抱かずにはいられませんでした。

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そして、ラフタリアもまた彼のそんな心情には薄々気づいていたのかも知れません。だからこその最終回、25話におけるどこか遠くを見据えるような表情の数々。目の前に居る尚文ではない、その心の奥に隠しているであろう彼の思惑を見透かそうとするようなアンニュイな表情芝居。それはこれまで積み重ねてきたラフタリアの想いと、「帰って欲しくない」と語る彼女の願いが溢れ出してしまったが故のものなのだと思いますが、そういった “これまでの物語” を下地にするという点においてはやはり前述した22話ラストシーンの存在はどうしても大きく感じてしまいます。

 

それは、ラフタリアの心情においても。演出の側面から見ても。あの分断*1があったからこそ、その奥を見つめるという視線に強度が生まれ、彼女の想いをより強固なものにしたのだと。

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それに関しては遂にラフタリアが尚文に縋った、帰って欲しくないと強く訴えた終盤のシーンでも同様でした。住む世界の違い、勇者としての使命。そういった色々なものの象徴として描かれたフレーム内フレーム分断のカットが強烈な印象を残していたからこそ、その先に居る尚文にラフタリアが触れる、言葉・想いを投げつけるという行為の強さが何倍にも増すのです。そしてそれは芝居レベルにまで浸透し、マントの皺、引く腕の強さ、正面から捉えられるラフタリアの表情の迫真さに多く託されていったのでしょう。

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縋る手、寄る皺の数々、目元から伝う涙の軌跡をしっかりと捉えるレイアウトの巧さ。密着するラフタリアの懇願、想いを描いた素晴らしいカットです。芝居・作画が演出となり、人物の心情を表層に浮かび上がらせてくれる。一定の距離感を保っていたからこその、反動、感情の爆発。積み重ねていったものがこういった芝居や演出により尚強烈に描かれていくのは何度観ても堪らず、本当に素適です。

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また積み重ねと言えばもう一つ。これまでの本編とは質感の違うタッチで描かれたカットの存在、そこから思い出されるのは何を隠そうこれまで物語に添えられた二つのEDでした。一つ目のEDは尚文の心情に、二つ目のEDはラフタリアの心情に寄せたものとして描かれていましたが、その二つの感情がついに入り混じった今話において、あの質感を再現する、ということにはやはり大きな意味があったように感じます。通常の画面に戻ったあとにカメラが逆位置にいき、想定線を越える挙動を見せていたことももしかすればそんな二人の想いに応えてのものだったのかも知れませんし、上述した22話のカット的にもそれはとても大きな意味を持つ演出です。

 

カメラが回り込むことで壁・境界を意に介さないとするコンテワーク。あの日とは入れ替わり立ち位置が変化することの意味。どこまでが意図的な見せ方なのかは分かりませんが、そんな風に直感として思えてしまう程、このシーンのカッティング設計は緻密さに溢れていたと思います。

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ラストカットは一つ目のEDのラストカットと同じレイアウトにするという粋な演出も光りました。どこまでもEDを、二人の物語を意識した画面作りです。22話と同じくここでも鳥が飛んでいたのはもはや様式美。しかし、あの時とは違い後ろ髪を引かれるような印象もなく、ここから新しく旅立つ彼らの門出に相応しい祝福そのものとして描かれていたのがとても胸に刺さりました。もしかすると振り返れば他の話数でもモチーフとして登場しているのかも知れませんが、個人的には印象に残っていた22話と重なったことがなによりも嬉しく、印象深く感じられました。

 

幼少期とは違い、今度は同じ目線で。孤高ではなく、仲間に手を振るラフタリアと世界を望む尚文の姿。焼きつく夕景に浮かぶシルエットが本当に素適でした。それこそ、振り返れば夕景を含めたライティングが美しい作品でもあったなと思います。二人の物語の中に感傷性を与えた見せ方、映像。ビジュアルや演出含め、そういったものの構成がとても素晴らしかった作品です。出来れば彼らの物語の続きがまだ観ていたいのですが、一先ずはここで幕引き。素敵な最終回を本当にありがとうございました。彼らとまた会えること、とても楽しみにしています。

*1:前述したフレーム内フレームのカット