『空の青さを知る人よ』の演出と青さについて

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長井龍雪監督作品におけるパキっとした影づけ、目にかかる影、影中の表現。それは往年の作品から続く “長井監督らしさ” でありながら、その中で描き続けてきた物語の象徴としてもその存在を印象づけてきました。鬱屈した感情、心に溜まるもの。それらをライティング*1から表現し描くのは、ひとえに言葉として打ち明けられない彼・彼女たちの想いを汲み取れる表現でもあるからなのだと思います。もちろんアニメという映像媒体である以上、ビジュアルとしての良さを突き詰めた結果そうなった側面はあるのだと思いますが、関係性や心情を物語の軸として描いてきたのが超平和バスターズという作家陣の軌跡です。だからこそ、色彩や撮影、レイアウトなど、それらが合致することで生まれるライティングの趣きの中には、やはり物語的な意図が深く根づいているのでしょう。

 

それは今作でも同様であり、影づけが顕著に映えるシーンの多くが印象的なものとなっていました。まるで、描かれる影こそがその人たちの心の内側そのものであると言わんばかりの絵力。それは冒頭から終盤まで貫かれ、どこまでもこの作品が登場人物たちの心に寄り添ったものであったことの証左にすら成り得ていたのです。

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そういった演出は、瞳なかばでフレームを切るレイアウトにも通づるものがあるはずです。言葉として実直に伝えられない想いがあるからこそ、絵として、表情として伝える。そのためにどう見せればそこに感傷性や想いが宿るのか。そんな思いを突き詰めたものが、いわゆる前述した長井監督らしさでもあるのでしょう。映像の先にあるもの。その先に描かれている人の葛藤。それを語り過ぎないように言葉数は減らし、けれどそこへ触れることが出来るように映像から訴えていく。その絶妙なバランスに惹きつけられてしまうのが長井監督作品の演出ロジックなのだと思います。

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物語前半部の回想シーンでは広角カットなどを使いお堂の広さを見せていた反面、現在を描くシーンでは狭く息苦しいカット*2が多くなっていくのも印象に残ります。まだ幼かったあおいにとって、ありし頃のお堂は活気に満ちとても広く夢に満ち溢れていたのかも知れませんが、今は誰にとってもそうではなくなってしまったことが描かれていました。それこそタイトルの枕詞として劇中にも登場する「井の中の蛙 大海を知らず」の一文。それを象徴するようなレイアウトも多く、やはりビジュアルの側面からも彼女たちの現状や心情は絶えず描かれ続けていくのです。

 

誰しもが誰しもに囚われ、その想いからも、この場所からも抜け出せなくなっていく現状。けれど、そういった囚われた感情をどう救い上げてあげるのか。その終着地の在り方が今作は一際違うものであったように感じられたのです。

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それは、有り体な言葉で言ってしまっていいのなら青さ、縦方向への動き。それに尽きます。特に、等身大の青春を描いてきた長井監督作品*4において、走るシーンなどから感情の昂ぶりを表現しダイナミックさを演出する手法*5はこれまで幾度も描かれてきたことですが、登場人物たちが上空へ舞い上がる縦のアクションが盛り込まれていたことは余りにも鮮烈でした。

 

想いに囚われ続けたからこそ生まれた感情や、誰かを愛する気持ちをまるで祝福するよう捉えていく終盤のシーン。打ち上がる二人、清々しいまでの青さ、煌めくレンズフレア。そして、なにより本作がそういったカットに託していたものは “愛していると想う” ことへの肯定に他ならなかったのだと思います。なぜなら、この物語における “空の青さ” とは心の内に灯る熱情と同義として考えることが出来るからです。

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それは、本作があおいの失恋を描き切った瞬間にその幕を閉じたことにも繋がっていきます。二人で青空を駆けた瞬間の美しさを思い出さずにはいられない煽りのレイアウト。躍動する縦のアクションとは対比的に描かれた高く跳ぼうともがく、あおいの動き。それぞれのカットが “彼女の青春” の幻影を追い掛けるよう描かれていたことは言うまでもありません。あおいにとっては “しんのと二人で舞い上がった秩父の空” こそが青春の象徴であり、憧憬。だからこそそれを追い掛けてしまうというのはむしろ必然で、その過程で描かれた “空の青さと、その色の鮮やかさ” はもはや彼女が抱く恋心のモチーフとしても描かれていたのです。

 

それは終盤、立ち止まった彼女が涙を流しながら空を見上げ、「空、クソ青い」とつぶやいたこととも同じ輪郭をもって語れることなのだと思います。恋仲ばに散った想いを抱え見つめた空の青さと、彼女の想いの代名詞とも呼べるシーンにて表現された空の青さ。そういったイメージの連鎖と、その中で情動に身を任せ走り続けた少女のことを、きっとこの作品は『空の青さを知る人』と呼ぶのでしょうし、翻りそれは『誰かを愛することを知る人』へと繋がっていくのでしょう。

 

そして、そんな空の青さをあおいが知った瞬間にこの物語が幕を閉じたこと、あの空の青さに近づいていくようなアクションが描かれたことは、きっと “愛することを知った” 彼女に対し、「あなたは美しい」と語り掛けるためのものでもあったはずなのです。愛する人に好きな人が居るーーそれでもと踵を返し、愛する人の元に向かい好きだと言えること、その想いの果てに駆け抜け、泣き、見上げることのできるあなたの強さを描き切ったこと。そういった行動や感情のすべてを祝福することが、『空の青さを知る人よ』という映画が携えていたテーマの一つだったのだと思います。

 

これまで長井監督が手掛けてきた青春劇のように、囚われた想いから脱却するだけが青春と呼ばれるわけでは決してないんだと。その想いを抱けたこと、そしてこれからも抱き続けていくであろうことを正面から美しいと形容し、あなたはそのままでいいんだと語り掛けてくれる作品の優しさ。「今までの長井監督作品で一番好きだ」と感じてしまったのも、そんな物語の慟哭に強く胸を打たれたからなのかも知れません。なにより、少女たちの精一杯の生き方に心揺さぶられる経験は何度味わっても刺さるもの。そういったことも含めて、本当に忘れられない作品になったと思います。

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

 

*1:陰影表現

*2:フレーム内フレームや境界カットを使い意図的に緊張感と分断を生んでいたカット

*3:サムネ参考画像:f:id:shirooo105:20191019133603p:plain

*4:とらドラ!』『あの花の名前を僕たちはまだ知らない。』『あの夏で待ってる』など

*5:走る人物をフォローし続けるなど

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』10話の演出について

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振り返れば強烈なファーストカットだったと思わずにはいられない枯れ木のイメージショット。以降、度々インサートされる落ち葉のモチーフは小説『最後の一葉』を連想させ、余命幾ばくもない母親の現状を静かに捉えていました。なにより、落ち葉でおままごとをしていた娘のアンもきっとそのことには心のどこかで気づいていて、本編中でも描かれていたようにだからこそ母との残された時間をなんとか掬い上げようとしていたのかも知れません。この物語はそんな子供ながらに繊細な少女の心と、その足が明日への一歩を踏み出す瞬間を非常に丁寧に積み重ね、描いた挿話でした。

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それこそアバンからして、そういった物語の方向性は顕著でした。アンがヴァイオレットに対して抱いた「凄く大きなお人形が来た」という最初の印象を刻み込むためカットバックで彼女の容姿を数度に渡り切り取った意味は大きく、その不吉さも含め、アンの視点に立ったカットの運びとモノローグが、これはアン・マグノリアの物語であることを克明に訴えかけるようでした。まだ掴みどころのない感情を抱いたアンの心にも寄せていくようロングからバストへ、バストからアップへとカメラの距離を彼女へと詰めていくのも同じこと。深く深く、まだ見ぬ少女の心に潜り込んでいこうとするコンテワーク。ぐっと惹きつけられる映像の重なりだと感じます。

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続けざまに描かれるアン主観のカット。知らない人たちへ向けられる視線の置き方。揺れる視界、強張る芝居、彼女を狭い空間へと閉じ込めるレイアウトが彼女の置かれた状況を垣間見せてくれます。不気味に変化していく女性の笑顔も拍車を掛け、やはりここでもアンの心細さというものを丁寧に表現していました。

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孤独さの表現。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はこれまでもレイアウトから訴えかける心情・映像を描き続けてきましたが、この話数でもそれは変わらないのだろうと思い至らされたカットです。自身が与り知らぬところで進む会話とやり取り、心的距離。足元を映したカットから感じられる寂しさは、私が思うよりも遥かに大きく幼気な少女の心へ覆いかぶさっていたのだと思います。

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そういった心的距離は初対面のヴァイオレットに対してより顕著に反映されていくことになります。以降幾度となく映される物陰にその小さな身体を隠そうとする仕草。子供はそういうもの、という見方も勿論出来るのだとは思いますが、この話に至ってはそれだけアンが母親以外に頼る人がいないこと、だからこそ母親への愛を強く抱いていることを示したいたはずです。

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ですが時が経つにつれ、二人の距離感は縮まっていきます。大きなソファーに一人でだらんと座るアンの姿もまた印象的だった映像の中にあって、やはり二人で座る、ということには大きな意味があるのでしょう。冒頭ではお人形が唯一の話し相手であり母親の替わりであった状況から、今度はしっかりと言葉を返し、受け止めてくれる大きなお人形ヴァイオレットが、母親の替わりになる。その光景はまるで本当の姉妹、家族のようで、繰り返し呼ばれる「ヴァイオレット!」の声色からは最初に彼女が感じていた不吉さはとうに消えていました。

 

特にリボンを結ぶ手がアップカットで描かれていたのはとてもグッとくるものがありました。何故なら、アンの頭を撫でる母親の手を今話は執拗に描いていたからです。それこそ、1話ではヴァイオレットの心情を、5話では隠し切れない愛情を、7話では添える手の温もりを描いてきた本作。なによりヴァイオレットの手といものに一つ主題を置いてきた本作だからこそ、やはり手を映すということにはそれ相応の意味があるのだと思います。故に今話において、ヴァイオレットがリボンを結ぶという行為が “母親” という替え難い存在を浮き彫りにしてしまうのはもはや自明で、ヴァイオレットが母親のようにも映る一方で、決してそうではないことが克明として映し出されてしまうのです。

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それは度々描かれた窓越しに母を見つめるアンの姿が何よりの証拠でもあり、その横顔に、その視線の先に描かれる彼女の想いは決して替えが効く誰かに向けられたものではないのです。京都アニメーションが数ある作品で描き続けてきた慟哭。涙。叫び。それを託されたアンもまた変わらず、自身の心情を母親にぶつけていく。一緒に居て欲しい、寂しいのだと。終盤のシーンでは窓越しではない面と向かっての言葉であるという状況と、カメラが切り返すごとにより感情の込もる声と表情芝居が、その切実さをより強く語り掛けるようでした。

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一方で、今度はヴァイオレットへと感情をぶつけていく。誰かの替わりではなく、相対する相手として。それはアンがヴァイオレットの寝室へと訪れた時に抱いた気持ちから地続きなものであり、相手と向き合うことで描かれる少女の成長に他なりません。その証左となる横構図、「私の腕があなたの腕の様に柔らかい肌にはならないのと同じくらいーー」という台詞に反応するアンの表情。二人の手を同じカットに収めることでその違いを鮮明に切り取っていたのもきっと意図的で、どうすることも出来ないこと、それでも向き合わざるを得ないことを、アンはきっとこの時に知ったのでしょう。

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それでも泣き叫ばずにはいられない。受け入れがたいからこそ、受け入れなければいけないからこそ。なにより、それはヴァイオレットにとっても同じことなのです。逆光により落とし込まれる陰と、彼女の横顔にも刻まれる感傷的な想い。だからこそ紡ぐことの出来る「届かなくていい手紙なんてない」という言葉。そんな彼女たちの姿を映したこのシーンのラストカットは、二人が抱く想いを雄弁に語ってくれていたと思います。虚空に消える泣き叫ぶ声と、声にならない心情。抜ける空の広さがその全てを抱き留めるようで、ただただ胸を打たれました。

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また、最後も向き合うための構図が描かれていたこと、そんな添えるような演出にとても感動させられてしまいました。今度はヴァイオレットだけではなく、母親ともしっかりと対面し、向き合うために。ヴァイオレットを追い掛け門をくぐり、その一歩を踏み出して、また母の元へと戻っていく姿は、些細ながらも克明に彼女の想いとその変遷を描き切っていたように思います。

 

また、奇しくもこの時にヴァイオレットが人であることにアンが気づいたのも素敵でした。大きなお人形としてではなく、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』として。今後50年以上に渡り、アンの心に彼女の存在が刻まれていくのでしょうし、それはヴァイオレットを介し、アンが向き合うことを選んだ結果に他なりません。前話で描かれた「君が自動手記人形としてやってきたことも消えない」という言葉が、そのまま映像として、物語として改めて紡がれていくこと。その喜びは余りにも大きいのです。

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もちろん悲しみを捨て切れず、涙を流すことだってある。それでもなにかの影に隠れ、誰かの間に挟まれ、想いに惑い、俯いていた頃とは違う。空の青さに飾られただ一点を見つめる少女の背中は、決して孤独を映すのではなく、前を向くことの出来る一人の少女の強さを映し出してくれるのです。幾重にも変化していく時の中で変わらず、ただ一つ彼女のみちしるべとなるものはきっと遠く過去に浮かぶ母親の姿。そしてそんな二人を繋ぐヴァイオレットの手紙。エモーショナルなバックショットとその奥行きに、そんな彼女たち3人の関係性が浮かび上がるまでが、おそらくは今回の大切なテーマなのだろうと思います。

 

最初から最後まで。どこまでもアンの心に寄り添った映像であり、物語でした。そしてそんな誰かの人生を受け涙を流したヴァイオレットもまた、アンと同じくもう一歩をこの先の未来で踏み出していくのでしょう。アンにとってはその傍らにヴァイオレットが居たように、ヴァイオレットの周りにも今はその肩を抱き寄せてくれる人たちが居てくれるのだから。

 

コンテ演出は小川太一さん。向き合うことを清々しい青さをもって締め括る映像美がとてもらしく、素敵でした。何度観ても泣いてしまう挿話です。出会えたことに心からの感謝を。本当にありがとうございました。

『22/7「あの日の彼女たち」』day01 滝川みうの演出、芝居について

先日、久しぶりに『あの日の彼女たち』を観返したわけですが、映像から溢れ、受け取れるものの多さに改めて感動させられました。環境音を使いBGMをなくすことで、そのシーンを特定の感情へ誘い込むことをしない。けれど、BGMがないからこそ受け手へ緊張感が走る、だから登場人物たちに向けより強いまなざしを向けることが出来るという没入のメソッド。それはきっと監督・演出をされた若林さんが意図したことでもあるのだとは思いますが、それを実現する画面からのアプローチ、映像の組み立ても非常に情感に溢れていて、より “彼女たち” に没入するための一助となっていました。

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特に本話で強く印象に残っているのはレイアウトとライティングです。外と内、屋上と室内、ステージと袖というある種二つの場所を描いた話でしたが、それが光と影を映し、扉一枚分の境界を敷くことになるのが今回の話においては一つ大きなテーマになっていたのだと思います。暗がりの中にぽっかりと浮かぶ窓枠、そこに映るみうと外界の風景はまるで絵画そのもののようで、だからこそそれを望む二コルの視線がエモーショナルに映ってしまう。逆側から二コルを映した際にも、窓ガラスにみうの姿を映すのは非常に繊細な描写で、彼女が “なに” を見ているのか、ということがハッキリと伝わってきます。滝川みうという少女の存在感。彼女の居る風景。それを二コルに重ね描く意味はとても大きいものであったはずです。

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二コルが窓に近づくカットでも境界、光と影という分断的な演出は光ります。カット初めから彼女を映すのではなく、滲む光に歩み寄る彼女を撮ることに意味があるのでしょう。そして、扉の目の前で立ち止まるまでの芝居を描き映すことがなによりも “あの日の彼女” を捉えることに繋がっていく。視線の先を描くレイアウトとライティング。そういった映像美が、『day01滝川みう』と謳うこの話がその実、斎藤二コルの物語でもあったことを雄弁に語ってくれるのです。

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このシーンも同様です。光を纏うみうと、それを浴びる二コルの対比。特に、先日若林さんが投稿された絵コンテ段階*1では、みうが振り向くカットは構成として描かれていませんでした。さらに印象的なシーンへと変えるため、あとから追加されたカットなのだと思いますが、そういったことからもこの話が強くライティングを意識したフィルムであったことが伺えます。二コルの髪が靡き、光が滲んでいくカットも元のコンテ段階では「じわPAN?」のト書き。カメラが移動することで光の加減や印象が変わってしまうことを考えれば、やはりこのカットも光を強く正面から捉えられるものへと変えられた、ということなのでしょう。

 

『あの日の彼女たち』シリーズを振り返っても基本ライティングがフィルムの大切な要素になっているのは同様でしたが、今回の話はそういった点が顕著に描かれていて、もしかすればその軸を築き上げたのは他でもなくこのday01だったのかも知れないとさえ思えてしまいます。光源の位置、強さ、淡さ、それを見つめる人の視線、反応。そういったものを細部から築き、重ね、心情とリンクすることが出来るのは一つアニメーションの大きな強さなのだと、改めてこの話を観返すことで感じられました。

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またもう一つ、今回若林さんが投稿されたコンテに気になる記述がありました。それがこのカットにト書きされた「やるぞっと一人気合を入れる(みうらしくあくまで小さく)」という一文。小柄ながら大きく伸びる所作、だらんとした腕の振りから、小さく腕を上げる動きがとても良く、見た目からだけでは分からない彼女の新しい面を幾つも描いてくれていた芝居です。だからこそそこに「みうらしく」と書かれていたことに、なんだかとても嬉しさを感じてしまいました。登場人物たちの性格、芝居をとても丁寧に汲み取る演出であったことは本話を観れば十分に感じ取れますが、きっとそれを裏づけてくれる文章を読めたことに胸を打たれてしまったのでしょう。

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そういったト書きは『エロマンガ先生』8話の絵コンテを掲載した『若林信仕事集2』*3でも見ることが出来ます。それがこの土手でエルフがマサムネを呼び止めるシーン、添えられていたのは「エルフらしいとこなので*4」という一文でした。ミドルショットからバストショットへのポン寄り。その中で描かれるゆったりとした動きの中に感じる大きさ、大らかさがとてもエルフらしく好きだなと感じていたのもあり、そのト書きを見た時もまたすごく嬉しくなってしまったのよく覚えています。

 

エロマンガ先生』8話もまた繊細な芝居に各々登場人物たちの心情を乗せていた話ではありましたが、それは前述した『あの日の彼女たち』においても同様です。多くを語らない、喋らせない代わりに芝居、仕草で語る。だからこそ伝わるもの、浮かび上がるものがあるのだということーー。若林さんの演出回にとって “らしく” 描くということは、そんな彼女たちの側面を新たに描き、心情を語り、物語全体の質感を上げていくことへ繋がっているのかも知れません。寡黙な演出と丁寧な芝居。その両面から登場人物たちを強く支えていくフィルム。若林信さんの演出に惚れ込んでしまう理由が、そこにはありました。

何もしてあげられない (Type-A) (DVD付) (特典なし)

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*1:若林信 ツイッター https://twitter.com/huusun/status/1143476764129165312

*2:サムネ参考画像:

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*3:2017年冬発刊の同人誌

*4:一部抜粋