『リズと青い鳥』と微熱について

冒頭、鎧塚みぞれを中心に据えた描写から始まった本作は徹底して内面を覗き込むような映像で構成されていました。浅い被写界深度、表情を伺うようなレイアウトの数々は言葉ではなく映像ですべてを物語るように繋がり、その瞬間瞬間にみぞれがなにを思い、考えているのかということを寡黙に語っているかのようでした。あらゆる芝居の機微に込められた情報量は言葉にするのも躊躇われるほどの多さと緻密さを誇り、彼女特有のアンニュイな表情も合わさることでより、みぞれの心情を深くそこに映し出していました。

 

しかし、転換期はみぞれが音大への進学を薦められ、パンフレットを受け取ったあとに訪れます。それまで一様にしてみぞれへ寄っていたカメラが希美を映し、彼女の心情にもそのフレームを寄せていくのです。ですが、それは本作が『響け!ユーフォニアム』として描かれていた頃からなにも変わらずに続けてきた物語の分岐に他なりません。すべての登場人物を一人の人間として描いてきた今シリーズの群像性。個人にしか分からないもの。見えないもの。それを描いてきた本作においては、むしろ当然すぎる映像の転換だったのでしょう。想いを寄せる人が居れば、それを向けられる人が居る。選ばれる人が居れば、そうでない人がいる。そういった青春と隣り合わせの出来事・関係性を今まで以上に、どこまでもミクロで感傷的に描いたのが『リズと青い鳥』という物語の作品性だと言えるはずです。ですがそれを描く上で組み込まれた上述の演出と、それ故に映像全体が纏っていた “途切れることのない熱っぽさ・緊張感” は以前に描かれたシリーズとはかけ離れたものでした。

 

なぜなら、みぞれが希美を見つめる映像から始りゆく本作はその終わりまで常に感傷的であり続けていたからです。ほっと一息を入れる間もなく続けざまに繋がっていくカットはその多くがエモーショナルで、否応なくなにかを感じさせる画*1が随所に置かれていました。一歩引いたロングショットを入れる場面も心情を汲み取るようなカットが多く、そのレイアウト・二人の距離感はまさに心的なものを表出させ、ほぼ緩い場面がなかったと思えてしまう程に鑑賞している間は常に彼女たちのことを考えさせられてしまう熱が本作には終始漂っていました。それこそ、希美とみぞれの話を描いた『響け!ユーフォニアム2』4話のような劇的さが本作にはほとんど見受けられなかった*2のも象徴的です。強いて言えば理科室でのシーンがそれに該当するのでしょうが、それもやはり感情的にはなり過ぎず、あくまで熱っぽく、彼女たちの一言一言やそれに呼応していく動きを追い掛けるような映像で纏められていました。淡々としていると言えないくらいには感情的で、劇的と言えない程には熱の高くない映像。一言で言えば “微熱” の物語。みぞれが中学生時代から抱え続けていたものや、希美が 「よく分からないところがある」 とみぞれへ感じていたもの。もしくは彼女に少しだけ感じていた劣等感やネガティブな感情。そんな各々の心情のぶつかり合いを行き過ぎず、けれど確かにそこにあるのだと目を背けず描き続けた本作はまさにそう呼ぶに差支えのないものであったように思います。

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別々の道を行く二人を示した終盤のシーンも強く印象的ではある反面、劇的として描かれていたわけでは決してありません。どこまでも静かに。けれど力強く翻るスカートはそれだけで二人の物語の行く末を案じさせてくれていましたし、その別れ際でさえ熱くなり過ぎることはなく、一定の熱を保っていたことにこそ本作で描かれた物語・映像の意図はあるのだと思います。涙も直接的に流れる画を撮るのではなく、流れ落ちたもの、こすれた目尻を撮ることで微かに残った熱を拾う描写で留めるのがきっと本作足る所以。多く言葉を紡ぐ必要もなければ、慟哭や激情もなくたっていい。それはみぞれと希美がこれまでも言葉数少ない関係であったように、“多くを語らない” 青春だってきっとあっていいのでしょう。当たり前に過ごす日常にある仕草、表情、痛み、彼女の背中を追うその足取りにだってきっと熱や変化、内に籠る言葉は宿るはずだから。ただ待ち続けていた冒頭から一転、希美を追い越し校門から飛び出していくみぞれの足が何万語を費やすより雄弁であったこととそれは同じ様にーー。

 

そういった機微にカメラを向け続けた本作はファインダーというものを意識し続けてきた山田尚子監督演出の一つの完成系でもあるように感じられました。心情を巧く吐露できない彼女たちに対し、漏れ出る心情すら逃さないようにカメラを向けてくれる山田監督への信頼。ああ、だから私はこの方の演出がこんなにも好きなんだと。『リズと青い鳥』は改めてそう思わせてくれた作品でしたし、それをみぞれと希美の物語でここまで濃厚に観せてもらえたことがとても嬉しかったです。*3

*1:劇伴と映像の噛み合いも相まって

*2:演奏シーンは非常に感情的

*3:参考:公式 京アニチャンネルより

『夏 ここなの8/31』の広角・魚眼レンズと狭さについて

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ヤマノススメ おもいでプレゼント』present1はここなとお母さんの話でしたが、まず驚いたのは広角、魚眼レンズで映したような画面設計の多さでした。シリーズの中でも広角を意識していると思われるカットはあったと思いますが、一つの話数の中でここまで徹底していたのは初めてなのではないかと思います。理由は色々とあると思います。広い範囲を映すことが出来るので街並みや景観を映したいときは非常に良い絵になると思いますし、今回の話で言えば広い範囲を捉えた景色の中を小柄なここなが歩いていくことで、非常にエモーショナルな絵にもなっていたように思います。

 

少し似た話ではセカンドシーズン二十合目『ここなの飯能大冒険』がありましたが、あの話では広い景色を見せたいときはパンを使い、フレームを縦横にずらすことで景観を捉えていたと思います。比較的寄りも多く、フルやロングショットが多い印象のあったOVA版はその辺りも違った工夫があって面白かったですし、夏の質感とここなが手探りで新しい冒険に出かけている感じがよりOVAらしいリッチな雰囲気を滲ませていて、本当に素晴らしかったと思います。

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ですが、そうした散策時の画面の広さに反して、とてもコンパクトな画面設計だったのがお母さんと一緒に入浴をするシーンでした。もちろん、登場人物の家の中なので、広く撮る必要はないのだと思います。また言い方は余り良くないですがここなの家の狭さも広く撮れない理由の一因にはなっているはずです。しかしながら、その狭さこそが今回のラストシーンを非常に情感溢れるものにしてくれていたとも思うのです。前述したように今回は風景を広く撮ることへの拘りが前へ出ていたと思います。しかしそうした画面構図・レイアウトが前半で多く使われたからこそ、ここなにとって大切な母との時間、密接な距離感をそのミニマムな画面設計によってより際立たせることが出来ていたのではないかと感じたのです。小さな湯船の中で身を寄せ合う親子の風景。それを近い距離で、ぎゅっと包み込むように撮るレイアウト。広角・魚眼といった広い風景では出せない種類の情感や優しさがこのシーンとカットからは強く感じられます。

 

またこのお風呂のシーンはBD付属のコンテ・脚本を読むと山本監督のコンテ段階で足されたことが分かります。ト書きにもお風呂に関して「(コンテに描いたものより)もっと狭くして下さい」との記述が見られました。もちろん、山本監督の意図としてどこまで「狭く」を意識されていたのかは分かりません。ただ単にモデルとなったアパートやこれまでの設定を鑑みて、そう記述したのかも知れません。ですが、私はその狭さにとても強い物語と映像の親和性を感じました。お母さんとの思い出を巡ったあとの、私とお母さん、二人だけの時間。そんなちょっとした幸せな時間を凝縮したものがあのカットだったのではないかと。

 

「どこに居てもお母さんとの思い出がたくさんあるから。だから寂しくないよ、お父さん」あの狭くて、近い二人を映したカットはもしかすれば、そんなここなのモノローグで語られた “寂しさ” を掻き消す証左にもなり得ていたのかも知れません。本当に素敵なエピソードでした。

おもいでクリエイターズ

おもいでクリエイターズ

 

 

『千年女優』へ馳せる想い

先月、以前から勧められていた『千年女優』を初めて観たのですが、その中で色々と思うところがあったので、そのことについて少し書いておこうと思います。それも一言で言ってしまえば “想いとか熱意の尊さ” みたいな、そんな凄くシンプルな話です。

そもそも生きていれば衰えていくのは当たり前のことで、そのことに対してこの作品は凄く自覚的なんだと思います。かつては名を馳せた大女優の、その年老いてしまった姿を作品序盤に描く辺り、むしろ “衰え” という現象そのものに対してこの作品はとても真摯的に向き合っていたはずです。カメラマンの「どんな大女優だって70越えたら大層なご老体」という言葉が持つ現実味のある響きも、むしろその事実を予め享受するための予防線であったのかも知れないですし、それはある種“儚さ”の象徴でもあり“女優だっていつかは女優でなくなる時がくる”ことを明確に暗示していたのだと思います。


けれど、この作品においてはそうした “現在の在り方” なんてものも実は物語の前提にしか過ぎず、この作品が描きたかったことってきっと “当時の在り方” に他ならなかったのでは、とも思うのです。それこそカッティングによって紡がれた幾つもの物語は、全て藤原千代子の過去の輝きであり当時の記憶に他なりません。たった一度の出会いを幾つもの作品に重ね、ただひたすらに、ひた向きに想い人を追い続ける彼女の視線。それは時に悲劇的な感情を帯びながらではあったものの、多くの場面では活力に満ちた眼差しに変化していました。だからこそ彼女が女優として立った舞台は今も尚、名作として後世に語り継がれているのでしょう。そしてその輝きはこうして彼女が舞台を降りた今も、一ファン(今回の話で言えば立花源也)の語りによって現世に舞い戻ることができる。むしろそれこそが、この作品が前提として据える“衰え”という現象に対して据えられた、唯一無二の反語になっていたのだと思います。

それこそ、創作物という存在は衰えを知らず、それが一度放った輝きはきっとその存在そのものが跡形もなく消えてなくなるまではきっと残り続けるものであると私は信じています。それはあの男性が壁に描き残した彼女の自画像のように。そこに込められた万感の想いというものは決して色褪せることもなければ消えもせず、むしろ年月による多少の劣化などは全くもって意に介さない魅力がそこにはあるのです。そして、それは彼女が演じた幾つもの作品に対しても同様のことがきっと言えるはずです。

そして彼女はそんな “輝いていた日々” を前にこう物語を締め括るのです。


「だって私、あの人を追い掛けている私が好きなんだもの」


その言葉はきっと彼女の本心そのものだったのでしょう。いつかは命が失われ逝く世界の理 (ことわり) の中で、けれど彼女があの人を追い続けたという事実だけはきっと未来永劫残り続ける。映画という媒体の中で。壁画という過去の遺物の中で。彼女の想いは必ずや生き続け、そしてその輝きはともすれば本当に千年後――。“彼女の想いなど意に介さない一人の鑑賞者” に対しても同様に降り注ぐのかも知れないというロマンがある。そしてそれは、今は亡き今敏監督の作品とその想いをこの時代に体験し、こんなにも心を震わした私自身に対してもきっと同様のことが言えるのではないかとも思います。


人は何かを永遠に追い続けることは出来ない。必ず衰えを享受する時を迎えてしまう。けれど、追い続けようとしたあの日々の輝きと想いだけはきっとこの世界に残響し、生き続けることができる。「好きだった」という感情の片鱗、その半生。人の想いや熱意というものは、だからこそ尊いのだと。そんな風に想いを馳せずにはいられない、まさに生涯に残る稀代の名作でした。この作品に出会えて本当に良かったと心から思います。ありがとうございました。