『小林さんちのメイドラゴン』13話 最終回 いつかの未来と今について

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動揺や不安。そういった負の感情への煽り方が本当に巧かったと思います。トールが部屋を出ていく時に始まり、ベランダで空を煽ぐ姿への閑静な繋げ方、カンナが部屋へ戻るとグッと画面の明度が下がり影面積の多い作画になり、音も消える。これは一話や二話、その後の回でもやっていた見せ方ではありますが、この作品は常にそうして個々の中に芽生える感情をその表層へと浮かび上がらせようとしていたのだと思います。

 

それこそ、今回のようにシリアスな展開になればそれは尚のことだったのでしょう。カンナから 「トールは二度と戻らない」 と告げられた時の表情、間、芝居全てが彼女が抱えた感情の代弁者となっていました。パキっとした影づけも、家事に奔走し、失敗を繰り返す小林さんの横顔や背中もその全てが彼女の心の惑いを捉えていた。当たり前です。だって “二度と戻らない” と語られたことの本質的な意味は “トールの死にさえ” 匹敵する彼女にとって最悪の苦難だったとも言い換えることが出来るからです。

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それこそ本作は幾度となくドラゴンと人間における寿命の違いと、共に寄り添い続けられないことへの理解を諭していました。そしてトールはそれも理解していたのだと、ファフニールとの会話からは読み取ることができます。けれど、感情と理性は別物です。分かっていても悲しむことを止めることは出来ない。だからこそ、未だにトールは自身の中でちゃんとした折り合いはつけることが出来ていなかったのでしょう。故に目を背ける。未来を見ることを止める。むしろ、今この瞬間、小林さんといる時間を大切にしたいと語ることで彼女は必ず訪れるであろう不安から逃げ続けていたのかも知れません。

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そしてそれは小林さんにとっても同じことだったのでしょう。二度と戻らない、言い換えればトールの死に直面したとも言える小林さんは日々の暮らしと仕事の両立で自らの感情を忙殺していたのだと思います。なにより、誰かが誰かを見つめる視線(今話で言えばアバンでの、トールの背中を見つめる小林さんのPOVショット)を時折よく挟んでいたこの作品がそれをほとんどしなくなっていたことも、そういった小林さんの心理的状況が影響していたのかも知れません。けれど、ふと目を配ると、部屋は散らかり、花は枯れ、ゴミは溜る一方で、がらんと空いた部屋が彼女の心の弱い部分を刺激していきます。だからこそ彼女の口から出た「こんなことならオムライス、美味しいって言っとけばよかったな」という言葉。あれは彼女の本音であり、精一杯の強がりでもあったのだと私には思えて仕方がありませんでした。

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けれどトールの声が聞こえると彼女は駆け出します。クールさを基盤としてこれまで描かれてきたキャラクターが走ることの意味は相当に大きいと思いますが、それ以上に少女・女性が全力で駆けていく様は時として感情を起源に描かれるのですから、この時の小林さんの内情もきっとその例に漏れず、推して図るべきものだったのでしょう。ダッチアングルになっているのも不安を煽るというよりは、不安に満たされていた心の闇を駆け抜けていく意味合いが強かったように思います。実際は傾いていない廊下ですが、その傾きに足を取られたようによろける芝居は素晴らしいものがありました。

 

そして扉を開け、影を振り払った小林さんの表情、その目に映ったのはあの日に見たトールの姿そのものでした。一話のリフレイン。そして再会。

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 けれどそれで彼女たちにとっての苦難が解決したわけでは決してありません。小林さん(人間)の寿命との折り合い。またいつ居なくなるかも分からないことへの覚悟。それらは生半可な気持ちで乗り越えられる壁では決してなかったはずです。またそこには、トールの父親に対する説得も同列として含まれていたのだと思います。つまりは他者への理解。受け入れられないことへの寄り添い方。そして “向き合う” ということがどういうことなのか、その全てを幾つかのレイアウトに収めるのはもはやさすがとしか言えません。

 

そしてその応えを小林さんはこう紡いでいきます。「違いを知ることはスタートだ。共に暮らすことも出来る。大切なのはそれがずっと続いていくと信じていけるどうかだ」と。それは彼女が導き出した願いそのものでもあったのだと思います。これまでの暮らしの中で培われたものと、今回の件でそれぞれが思い知った自分自身の弱さ。相手への不干渉を壁として生きてきた彼女たちが、他者と深く関わり合うことで得た感情の数々。誰かを想うというのはこんなにも情熱的で、光に満ちるのだと知ったその経験。その全てを嘘だとは言いたくない。信じていたい。そして、それを願う “今” の積み重ねが自分たちの “未来” に繋がっていくのだと。

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なによりそうした小林さんの想いはトールの元にもしっかりと届いたのだと思います。だからこそ彼女は来るべき未来を享受しながら、「それでも小林さんと出会わなければよかったなんて思わない」と断言することができたのでしょうし、そうして見上げる彼女の視線の先にはしっかりと彼女たち三人で歩むこれからの未来が映し出されていたように思います。パンアップしながら空抜けしていくカットに込められた想いも、きっとそんな彼女たちの願いと同じものだったのではないでしょうか。

 

上る坂道と手を振るカンナの姿。非常にエモーショナルなカットですが、このラストカットにこそこの作品が示したかった未来像はあるのだと思います。最終話のコンテは監督の武本さん、演出処理は木上さんと澤さん。独特なカッティングのテンポとレイアウトの強さが出たこの作品の締めに相応しいフィルムだったと思います。全話を通しての感情的な表現、緩やかで温かな画面とのバランスコントロールは武本さんの尽力の賜物だと思います。関わられた全てのスタッフの皆さまにも心から感謝を。本当に素敵な作品をありがとうございました。

『響け!ユーフォニアム2』 4話 吉川優子という希望、その陽のあたる向こう側へ

鎧塚みぞれ、傘木希美の行き違いを描いた二人の物語。紆余曲折を経て辿り着いた場所は、美しいとしか形容出来ない安堵の幕切れをもって私に強い感動と喜びを与えてくれました。

 

しかし、この物語は二人によって解決したわけでは決してありませんでした。なぜなら、それは久美子を含めた多くの部員が関り、励み、駆け抜けた結果が実りを迎えた瞬間そのものであり、だからこそこの物語を “二人だけのもの” とすることには強い違和感があったからです。むしろ、ここまで一貫し群像劇として描かれてきた『響け!ユーフォニアム』という作品は、その最たる象徴としてこの物語を描いたようにすら思えますし、それは一期の時点で石原立也監督が「この部員たちは“名も無いエキストラ”ではなく全員名前のある“登場人物”だ*1と語ったこととも大よそ同様の輪郭をもって語ることの出来る本作の大きな主題でもあったのだと思います。

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特にこの話において、常にみぞれの傍に居続けた吉川優子の奔走劇は、そうした物語の主体に成り得る様相を強く露呈していたと思います。自分の信じた道を進み、自分の夢を追い駆け、大好きな人のために懸命になれる彼女の姿は、それこそ吉川優子という人間の本質を細部まで描いたゆえの賜物でもあったのでしょう。

 

それも遡れば一期の頃からそうであったように、だからこそ彼女は自分の物語、誰かの物語のために精一杯の愛と真っ直ぐな視線を注いであげることが出来るのだと思います。自分自身が納得しなければ決して折れることはないし、相手の本当の気持ちというものが見えなければ決して妥協を許そうとはしない。それは吉川優子という一人の少女の強さであり、優しさに他ならず、故に彼女はそこに立ちはだかるものがたとえ運命であろうとも懸命に抗おうとするのです。

 

もちろん、そのせいで誰かと衝突したり、間違いを犯したりすることも多くあったことは事実です。けれど、それは彼女が自分自身の“青春”に対し誠実であったがための行いでもあったはずなのです。誰かの物語に自分(或いは、自分が信じた人)の物語が塗り替えられることに耐え切れないがための抵抗。悔しさの発露。涙の代替行為。なによりそれは、久美子が「上手くなりたい」と涙を流したことと本質的には変わることのない、青春を駆けるための慟哭でもあったはずです。だからこそ、私はそんな彼女の想いや行為の全てを否定することが出来なかったし、彼女の全てを否定しようとしていたそれまでの自分を許すことが出来ませんでした。あのコンサートホールで彼女が流した涙ほど尊いものはないと、そう心から思わずにはいられなかったのです。*2

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そしてそうした彼女の姿や信念は今回の物語においても、やはり大きな役割を担いながら強く表現されていたように思います。大好きな人を守るため。あの喜びをまた一緒に勝ち取るために。まただからこそ、彼女は決してみぞれを見捨てはしなかったのでしょう。そして、みぞれの物語を摘み取る因子に成り得るものから彼女を守ろうとした。それこそ、優子はおそらく希美のことが嫌いなわけではないし、もし彼女に嫌いな部分があるとすればそれは「なにもしようとしない」鈍感さぐらいのものだったはずです。

 

だからきっと本質的に彼女は希美のことを嫌ってはいない。でももし、みぞれの物語を奪うなら彼女は決死の形相で希美と対峙するくらいの覚悟は持っている。そして、それは紛れもなくあのオーディションの時に見せたものとほぼ同じ形をもって語ることの出来る吉川優子という人の本質に他ならないものだと断言できるはずです。

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またそうした彼女の想いの強さと、その矛先はみぞれに対しても同様に向けられることとなります。それは「優子は同情で私に優しくしてくれた」とみぞれが語った場面。本当なら余りに辛いその一言に後ずさり、その手を離すことも出来たはずです。しかし、優子は決して引き下がることなく相手の元にもう一歩踏み込み、こう叫ぶのです。「そうじゃない」って。「それでいいの?」って。それは紛れもない彼女の本心であり、鎧塚みぞれという一人の人間を愛していたからこその否定でもあったのでしょう。

 

だからこそ彼女は、これまで積み上げてきたもの、二人で培ってきたもの、この北宇治高校吹奏楽部で見渡してきた景色の全てを守るために、強い口調でその想いをぶつけていこうとする。そしてそれは、この作品が『響け!』の言葉尻に託してきたものと同様の感情をもって語ることの出来る、彼女にしか響かすことの出来ない大切な人に伝えるための“音”でもあったのだと思います。

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そしてそれは優子の目から涙となって零れ落ち、彼女の頬へ伝い、その心にきっと力強く反響したことでしょう。まただからこそ、みぞれは優子の元へともう一つ歩み寄ることが出来たのでしょうし、彼女の待つ陽のあたる場所へと向かうことがやっと出来たのだと思います。大袈裟に幾度も回転するハイライト、みぞれの流した大粒の涙はそれこそ優子が彼女にとって救いであったことの証左でしょう。

 

それこそ、優子自身が言っていたように不器用にしか立ち回れない彼女ではありましたけど、それでも大切なもののために真っ直ぐぶつかれるその強さと優しさは、この物語においてもやはり一つの希望に成り得るものであったのではないかと私は思います。言葉でぶつかり、気持ちを伝え、相手と向き合うことを選択する吉川優子という存在はやはり本作において「どっちにも挙げなかった誰か」には決してなることのない “特別” な存在だったのです。だからこそ伝えることの怖さから逃げない彼女の姿は力強い眩さをもってこの目に映り込んだのでしょうし、そこにこそ彼女が持つ素敵な心の在り方は多く映し出されるのだと思います。

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ただ、だからと言って彼女が “誰か” の一番になれるという保証はどこにもないし、それと同じだけの想いを返して貰える保障なんてどこにもないのです。それは “頑張れば叶うとは限らない” 青春の儚さや、その側面をも本作が描いてきたように、報われない想いというものは必ず存在するのだということを克明に描いてくれていたのでしょう。でも多分、優子は “報われる” ことを望んでいるわけではなく、自分の大切な想いや大切な人が “大切だと感じた理由そのままに在ること” をただ望んでいるだけなのだと思うんです。決して同情なんかじゃない。誰かを陥れたいわけでもなければ、誰かに愛されたいからでもない。自分の信じた青春を。風景を。そうした夢とさえ置き換えられるなにもかもを、ただ彼女は愛し、守ろうとしていたいだけなのでしょう。

 

ただその一方で、そうした彼女の姿勢を見てくれている人はきっと何処かにいて、その横にそっと寄り添ってくれている人も必ずいる。明日香先輩の「打算」という言葉に対し、久美子がぎゅっと手を握ったのも同じことのような気がします。あなたの想いはしっかりと誰かが見届け、感じている。だからこそ労いの言葉を一言でも掛けてあげたいと思う気持ちは私も同じですし、そんな私たちの想いを代弁するかのよう優子へ正直な想いを伝えてくれた中川先輩にはとても感謝しています。あの言葉は紛れもなく彼女にとっての救いでした。

 

見返りじゃなく、打算でもない。そんな彼女という人間を真っ向から描いたこの挿話は、再び私の胸に生涯刻み込まれるであろう挿話になったと思います。それこそ、あの十一話のことを思えば思う程、やはり彼女が “吉川優子でいてくれた” ことは凄く嬉しかったですし、それだけのことを反芻するだけでなんだか少し目尻に涙が溜まり、視界が歪みそうになります。もちろん、変わらない中にも変化はあって、そんなニュアンスを感じ取れる言葉が彼女の口から漏れる度につい幸せを噛み締めたくなるのは仕方のないことなのでしょう。そんな “彼女” の次の物語にもまた期待しつつ、これからもその想いと感情の音色に耳を傾けていければいいなと、今は強くそう思っています。『響け!ユーフォニアム』という物語において、吉川優子は私の希望そのものでもあるのだから。

*1:第二回 よろしくユーフォニアム:STORY | TVアニメ『響け!ユーフォニアム』公式サイト

http://tv.anime-eupho.com/story/02/

*2:『響け!ユーフォニアム』11話の感情、或いは吉川優子の物語

http://d.hatena.ne.jp/shirooo105/20150619/1434640822

『海がきこえる』の寡黙さと微熱

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夏の陽射し。流れゆく景色。淡々と進むフィルム。熱い恋愛ものとは程遠いまでに感情的になることを抑えつけるこの映像は、まるでそよ風のように心地良い読後感を与えてくれました。

 

それこそ主人公である杜崎が本作において激情にかられていたのはどれも怒りという感情が基盤となっている時だけでした。恋愛感情をこれといって滲ませない彼はそうした色恋事で騒ぎを起こすこともなければ、誰かを必死に追い掛けるようなシーンもほぼ本編には存在しません。それどころか、彼が走るという行為をとることさえ本編では描かないのです。故に本作にはドライブ感というものは余り感じられず、淡々と、同じ歩幅で、まるで平然を装うかのようにこの作品は閑静に纏められています。

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しかし、かくして青春とはそういうものでもあると思うのです。誰もが劇的な出会いを果たすわけではない。想い人を遠巻きに眺めたまま終わる青春もある。じゃあ、そうした“普通”の青春というものは物語に成り得ないのかと問われればそんなことは決してなく、人それぞれに物語というものはちゃんと備わっている。

 

つまり、本作はただ杜崎という一人の青年が送った青春に歩調を合わせただけなのだと思います。彼の見た景色や、感情をそのまま映像にすること。レイアウト的に映える画面はもちいても、決して感情は煽らない。流れるままに。さざ波のように。なにより、そうして心の赴くままに撮られた作品であるからこそフィルムは寡黙になっていく。余計なことは映像で語らず、語るべきことだけを映像で語る美しさ。そしてそれはこの作品を「平熱で作ろう」と決めた制作側の意図*1をそのまま映写したが故の賜物でもあるのだと思います。

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また、だからこそ彼の心が揺らげば本作の映像もまた少しずつ感情的になっていくのでしょう。「昔はなんとも思っていなかった」と語られた高知城を背にズームアウトしながらカットバック的に差し込まれるあの日の情景。それはまるで寄せては返す波のようにゆっくりと彼の心中に響き、まるで微熱の如くその想いを少しずつ膨らませていくのです。

 

そして、ようやく彼は走り出すのです。想い人の元へ。遠い昔に忘れていたあの日々を取り戻すように。そしてここでもカメラは決してその感情を煽ることなく彼をフォローしながらその行方を見守ります。劇伴も壮大にはせず。過剰な演技も必要ないと云わんばかりの見守るような演出。ただそれでも、ラストシーンで回り込み気味のカメラワークを使ったのは茶目っ気であり、祝福であり、また少しはロマンスがあってもいいだろうという、一種のファンサービスであったのかも知れません。その辺り、どこかで語られていたりするのなら、是非聞いてみたいなぁとも思います。

*1:海がきこえる』DVD特典映像:スタッフ座談会より