『千年女優』へ馳せる想い

先月、以前から勧められていた『千年女優』を初めて観たのですが、その中で色々と思うところがあったので、そのことについて少し書いておこうと思います。それも一言で言ってしまえば “想いとか熱意の尊さ” みたいな、そんな凄くシンプルな話です。

そもそも生きていれば衰えていくのは当たり前のことで、そのことに対してこの作品は凄く自覚的なんだと思います。かつては名を馳せた大女優の、その年老いてしまった姿を作品序盤に描く辺り、むしろ “衰え” という現象そのものに対してこの作品はとても真摯的に向き合っていたはずです。カメラマンの「どんな大女優だって70越えたら大層なご老体」という言葉が持つ現実味のある響きも、むしろその事実を予め享受するための予防線であったのかも知れないですし、それはある種“儚さ”の象徴でもあり“女優だっていつかは女優でなくなる時がくる”ことを明確に暗示していたのだと思います。


けれど、この作品においてはそうした “現在の在り方” なんてものも実は物語の前提にしか過ぎず、この作品が描きたかったことってきっと “当時の在り方” に他ならなかったのでは、とも思うのです。それこそカッティングによって紡がれた幾つもの物語は、全て藤原千代子の過去の輝きであり当時の記憶に他なりません。たった一度の出会いを幾つもの作品に重ね、ただひたすらに、ひた向きに想い人を追い続ける彼女の視線。それは時に悲劇的な感情を帯びながらではあったものの、多くの場面では活力に満ちた眼差しに変化していました。だからこそ彼女が女優として立った舞台は今も尚、名作として後世に語り継がれているのでしょう。そしてその輝きはこうして彼女が舞台を降りた今も、一ファン(今回の話で言えば立花源也)の語りによって現世に舞い戻ることができる。むしろそれこそが、この作品が前提として据える“衰え”という現象に対して据えられた、唯一無二の反語になっていたのだと思います。

それこそ、創作物という存在は衰えを知らず、それが一度放った輝きはきっとその存在そのものが跡形もなく消えてなくなるまではきっと残り続けるものであると私は信じています。それはあの男性が壁に描き残した彼女の自画像のように。そこに込められた万感の想いというものは決して色褪せることもなければ消えもせず、むしろ年月による多少の劣化などは全くもって意に介さない魅力がそこにはあるのです。そして、それは彼女が演じた幾つもの作品に対しても同様のことがきっと言えるはずです。

そして彼女はそんな “輝いていた日々” を前にこう物語を締め括るのです。


「だって私、あの人を追い掛けている私が好きなんだもの」


その言葉はきっと彼女の本心そのものだったのでしょう。いつかは命が失われ逝く世界の理 (ことわり) の中で、けれど彼女があの人を追い続けたという事実だけはきっと未来永劫残り続ける。映画という媒体の中で。壁画という過去の遺物の中で。彼女の想いは必ずや生き続け、そしてその輝きはともすれば本当に千年後――。“彼女の想いなど意に介さない一人の鑑賞者” に対しても同様に降り注ぐのかも知れないというロマンがある。そしてそれは、今は亡き今敏監督の作品とその想いをこの時代に体験し、こんなにも心を震わした私自身に対してもきっと同様のことが言えるのではないかとも思います。


人は何かを永遠に追い続けることは出来ない。必ず衰えを享受する時を迎えてしまう。けれど、追い続けようとしたあの日々の輝きと想いだけはきっとこの世界に残響し、生き続けることができる。「好きだった」という感情の片鱗、その半生。人の想いや熱意というものは、だからこそ尊いのだと。そんな風に想いを馳せずにはいられない、まさに生涯に残る稀代の名作でした。この作品に出会えて本当に良かったと心から思います。ありがとうございました。