『響け!ユーフォニアム』 13話の奥行き、その立体感

遂に最終話を迎えた『響け!ユーフォニアム』。その映像と音楽の重なりはまるで心に焼きつく程に情熱的で、この作品の全てをその舞台の上に置いてきたであろう素晴らしい幕引きであったように思えました。それは麗奈の涙や「今に全てを掛けよう」とする久美子の表情を見ても強く感じられる高揚感そのものであり、それはこの作品が青春の代名詞 としてよく語られることを今一度、力強く証明してくれました。


けれどこの最終話を観て一番心を震わされたのは、おそらく“そこ”ではなかったのだろうとも思うのです。それは、決してスポットライトをその中心で浴びていたとは言えない“彼女たち”の存在で、そうした物語の一つ一つに宿る輝きがあったからこそこんなにも感動することが出来たのではないかと。

例えば、麗奈のソロパートを前に物惣いに耽るよう目を細める香織先輩や、その奥で聴き入るように、けれど何処か寂しさそうな表情を浮かべた吉川優子たちはとても象徴的だったと思います。物語の群像性。幾つもの視点。黄前久美子という核たる主人公を置きながら、決して彼女にも引けを取らない少女たちの物語を紡いでいった『響け!ユーフォニアム』はだからこそ名作足り得たはずです。


「誰かが舞台に上がるということは、舞台に上がれない誰かが居るということ」という負の側面を描くことを恐れず、悲劇的な物語に屈していく少女の生き様を浮き彫りにすることで物語の多面性を獲得していった本作のスタンス。それも画面の前景と遠景に香織と優子を配置し、その間で麗奈にソロを吹かすなんて攻めたレイアウトを遣うのはまさにその象徴でしょう。被写界深度を浅く、一人ひとりにピントを合わせる。そんな、そっとカメラの焦点を少女たちに合わせていく優しさと厳しさは、きっとこの作品が一番大切にしていたものです。

そしてそれはこの作品が北宇治高校吹奏楽部の全ての部員を“個を携えた登場人物”として認識した物語であったことの証左に他ならないのでしょう。たとえカメラが誰かを捉えていたとしても、そのフレームの中で絡み合う視線は決して一つではないのだと語る映像とコンテワーク。画面の奥、或いは手前にキャラクターを配置すれば、画的なもの以上に物語に対しても奥行きが出る。だからピントを送れる。焦点をずらすことが出来る。誰かが歩んだ物語の裏、或いはそれより前に語られた物語の上で、誰かが泣き、誰かが憂い、誰かが笑顔を咲かしていたのだということをこのフィルムは鮮明として教えてくれる。

そして何を隠そう、そうして複雑に交差する感情が形成していく立体感を人は“青春”と呼び、そこで立像された風景にこそ私は美しさを感じてしまったのだと思います。それは夏紀先輩から突き出された拳にあらゆる感情が仮託されていたように。悔しさも。喜びも。心からの声援も。今度は自分も、なんていう願いの込められた未来への誓いも。その全てが堪え切れず滲み出したその一瞬にこそこの作品はほんの少しスポットライトを傾けながら、彼女たちの元へとそっと物語の軌道をずらしてくれるのです。

そして『響け!』と奏でられた彼女たちの音色は誰においても等しく語ることを許された願いそのものであり、この作品はそうした一つ一つの想いを響かせるための奥行きを広げながら、彼女たちが“この場所”にまで辿り着くのをずっと待っていてくれたのだと思います。


悔しいと思える心は美しい、夢に向かい懸命になれる姿は秀麗であると、まるで誰にでもなく語りかけてくれたかのような最終話。そんな有りふれたようで、彼女たちにしか響かせることの出来ない幕引きが本当に素敵でした。願わくばそうして今を駆け抜けた少年少女たちにさらなる夢の続きが訪れることを祈りつつ。今はただこの物語の節目と広大な青空へと抜けていった新たなる予感に想いを馳せるばかりです。本当におめでとう。そして、素敵な青春をありがとうございました。