赤い傘、心の壁、牧穂乃果曰く 『キズナイーバー』7話

物語も佳境に差し掛かってきた『キズナイーバー』7話。語られたのは常にポーカーフェイスを決め込む牧穂乃果の過去と今の彼女に至る出生の秘密だったわけですが、その軌跡に描かれていたのはやはり辛く険しい物語そのものでした。


信じたい気持ちと信じた先に幻視してしまう絶望の未来。誰だって傷つきたくない、傷つけたくないと願う中で、それでも自分の心を守る判断を下した穂乃果の決断は決して咎められるものではないと思います。だって失うことは誰だって怖い。いっそのこと最初から無い方が良かったと思う程に、持っていたものがその手の中から消えていくことって凄く恐ろしい。だからこそ、相手を突き放してしまった彼女の気持ちも痛い程に伝わってくるんです。彼女自身、その後の心の距離感に苦痛を感じていなかったはずがないし、むしろ「瑠々と距離を置く」という決断は彼女が痛みを押し殺しながら刻んだ傷でもあったはずです。裏切ったとか、見捨てたとか。そんな単純なことじゃない。決してそんな風に割り切っていいことじゃないんですよ。

けれど仁子の言う通りそれは“穂乃果だけの気持ちであり、彼女自身にしか分からない【痛み】”でもあるわけで、その真意も伝えようとしなければ誰かに伝わることは決してない。それは瑠々がどういうつもりで穂乃果を押し倒したのかが分からないことと同じように、つまりは他人の感情を完全に掴むことなんて人間には出来ないということをそれは逆説的に証明してしまうんです。もちろん、本当に仲が良ければその輪郭くらいは掴めるのかも知れない。でも、その内情までは分からない。そしてそれはあのキズナシステムをもちいても実現には至っていないわけで、云わばそんな“心の壁”とさえ呼べる強靭なバリケードを人は抱えている。


自分の明かしたくない気持ち、想い、感情。そんな抽象的で曖昧なものを外に漏らさないために打ち付けられた心の壁。けれど、その壁は外に出したくない気持ちを漏らさずに済む替わりに、外へ押し出さなければ心が壊れてしまう感情の濁流をも押し留めその内側から人を蝕んでいく諸刃の剣。だからこそ、ようはバランスが大切だと思うんですが、穂乃果の場合はそれを上手く使いこなすことが出来なかった。心の中にあったもの全てを堰き止め何もかもを自らの内に閉じ込めてしまった。それが今の状況に繋がり、最悪の形を象ってしまったのだと思います。

故に彼女は素直になれない。自分自身に正直になれない。彼女自身は正直に生きているつもりでも、時折崩れるそのポーカーフェイスから滲むように感情が零れ出し、彼女の心が何処にあるのかを分からなくしてしまう。分からないから進めない。分かりたくないから進まない。前へ出そうとする足はその場を空転するばかりで、あの日から穂乃果は一歩たりともその場を離れることが出来ていない。抜け出すことも出来ず、突き進むことも出来ずにただ漠然と過ぎたであろう彼女の月日。もはや彼女にとってシャルル・ド・マッキングとは呪いの言葉でしかなくなっていたのでしょう。

もちろん二人の過去が“呪い”になってしまったことの原因の一端は瑠々にもあるのだと思います。彼女の言葉が穂乃果を苦しめ、その思考をネガティブなものに変えてしまったのはまず間違いない。けれど穂乃果自身も瑠々には“言えなかった”言葉が確かにあったわけで、その点を鑑みれば瑠々だって同じように進めなくなっていたのかも知れないんですよね。だって、二人揃ってのシャルル・ド・マッキング。あの漫画がもし大団円を迎えるのならそれは二人の手によるものでなくては成立しない。


だからこそ頷けるのは「最終話の評判が悪かった」という世間の一説。だって一人じゃ描けるわけがない。二人で築き上げてきた物語は決して一人の筆先では埋まらない。一筋縄じゃない。そんな簡単に突き放せるわけなかったんですよ。

でも逆に、だからこそ彼女は最終話を一人で描くことへと踏み切ることが出来たんじゃないかとも思うんです。だってあれは物語の続きじゃない。漫画という媒体の最終話。その体を成して描かれたあの作品は間違いなく“穂乃果と瑠々が辿り歩んだ物語の最終話”に他ならないからです。


瑠々が精一杯の気持ちを込めて紡いだ言葉。いつか穂乃果がもし、このページを読むことがあればその言葉があなたの心へと届き、その支えとなるように。「あなたの笑顔が、大好きだから」。一番伝えたかった言葉を、一番伝えたかった人へ向けて描いた最終回。それは進むことが出来なくなってしまった瑠々がそれでも前へと進もうとした証に他ならず、形容するならそれは決して“呪い”などではなく、むしろ“希望”とも呼ぶことの出来る言葉だったのではないかと思います。


そしてもし、穂乃果と瑠々の間に違いがあるのだとすればきっと“そこ”なのでしょう。相手の本心が分からない中で、それでも私には伝えたいものがあると追い縋ることが出来るのかどうか。傷つくかも知れない。嫌われるかも知れない。けれど伝えなければ何一つ前へは進めないという決意。心の壁を破り、たった一言伝えてみるだけでいい。「笑って」って。「大好きだよ」って。たったそれだけのことがこんなにも眩しく前を照らしてくれる。だから進んでいける。歩いて行ける。“伝える”ということがいつの日か“あなた自身”の道標になる。

悲しみは其処此処に積もる。それは時に激しく、時にしたした降り注ぐ雨のように心の底に溜まり辛かった記憶を映し出す鏡にもなる。だから傘は必要だ。こんな薄暗いどんよりとした天気の日にはいっそ真っ赤な傘を差して一人歩くのもいいかも知れない。もちろん気分は晴れない。けれど、これ以上悲しみに晒されずに済むから。これ以上自分を曝け出さずに済むから。ああ、なんて便利な傘。我が心の壁。


けれど、少しそこから顔を覗かせてみるとそこには友と呼べるか呼べないかまだ分からないような奴らの顔があって、実は雲間にもたくさんの星々が輝いて居ることを知って、降り注ぐ雨にも意外と嫌な気持ちを抱かないことを知ることができるわけです。それは“伝えてみなければ分からない”ことと少し似ていて、だからこそあの瞬間、彼女は自らの心の壁を少しだけ取り除き「キズナイーバーから始めませんか?」と、彼らに伝えることが出来たのだと思います。誰に諭されるわけでもなく、誰に従うわけでもない。傘を持つ手を自ら降ろすことの意味は見た目以上に大きい、勇気ある“あの日”から前へ進むための一歩に他ならなかったのだと思います。

そして、それは伝えることの大切さを語ると同時に“他人の感情を完全に掴むことは出来ない”という一つの事実に対する反語、“それでも人の感情はどこかで交わるのかも知れない”という希望をも雄弁に語り掛けてくれていたのでしょう。


なによりこれは感情と感情、痛みと痛みの交錯の物語。心の完全な通いを否定しておきながら、しかしそれらが象る感情の曲線は必ずどこかで交わるのだと力説する『キズナイーバー』。その交錯する点こそが“絆”であり“希望”に他ならないということをこの作品は伝えたかったのでしょうし、今回の話で言えば穂乃香と瑠々にとって「あなたの笑顔が好きだから」というそのたった一つの心の通いが“希望”であり、“交錯点”だったということを描きたかったのかも知れません。最後に、願わくば彼女の零した言葉がどうかあの人の元にも届いていますようにと祈りつつ。「私も」と伝えることの出来た彼女の成長と大きく踏み出された一歩に今はただただ心を寄せていたいなと思います。