抗う恋と遠望の視線、それでも手を伸ばし続ける貴女へ贈る− / 『秒速5センチメートル』 『コスモナウト』 を観て改めて想うこと

 
「ただひたすらに、どうしようもなく」

そんな抑えすらも効かなくなった感情の衝動に身を任せ、道に迷い、想いに惑い、やがては悲しみに暮れ涙を流した一人の少女の物語、『コスモナウト』。手の届かないもの、手の届かない風景に想いを馳せ、“遠く” にあるものに対し「それでも、私は 」と真っ直ぐ前を見据えながら走り続けた少女の姿には大きく心を震わされました。ただだからこそその可憐でいて華奢で、逞しくも繊細な彼女の心を前にすれば自然と涙が流れてしまうのも致し方ないことだったのだと思います。


「ああそうだ、彼女は決して“負けない”」。恋に恋が敗れたことを知っても尚、その先にある不確かなものを見据えながら彼女はいつまでもその想いを反芻するのだろうという期待と予感。それが澄田花苗という少女の本質。いや、きっと多分。さらに踏み込んでしまっていいのなら、それは『秒速5センチメートル』という作品そのものが持つ本質の一つでもあったのだと言えるものなのかも知れません。

それは一言で言ってしまえば “遠くを望む” ことの秀麗さであり、その美学。一目惚れというゼロ地点からの飛躍を成就させるため、その場所へ向けて飛翔方法を模索する少女の姿の美しさ。気づけば相手を見つめ、見つめる度に好きになる。そうして恋を経験した花苗もその例外ではなく、必死になって手を伸ばすその姿はだからこそ輝きを伴うほどの傷跡となって、未だ私の心に深く刻み込まれているのだと思います。


また、そこにあるのはそうした “美しさ” や “尊さ” といったポジティブな感情だけでは決してなく、それこそ傷跡と言い切るくらいには苦しさや悔しさだってあるし、痛みもあるんです。あんなに懸命だった彼女に対し断絶を強いる過酷な現実。「その手は決して届かない」と直接的に言うことはないものの、あらゆる事象が暗黙の了解に理想と現実のギャップを突きつけながらその場に鎮座して、「もう多分、届くことはないのだろう」と受け手の心を折るためこの作品は我々の背後から襲い掛かってくる。


それは初めて買ったお揃いのコーヒー飲料の背丈の違いとか、“あなた” を追いかける為のカブが遂には走ることを止めた瞬間とか、例えばそんなシーンの連続で。そうして噛み合うことのない多くの歯車は、遂に彼女たちが見据える先にあるものの違いにまでもリンクしつつ、彼女の心を切りつけ、その想いを叩きつける。故に、この物語には「一片の不幸すらもなかったのだ」などと口が裂けても言えるわけがなく、ただただそうして彼女の運命を弄ぶ物語の圧力に対し、私は憎悪を向けることも少なくなかったのだと思います。

けれど、それでも彼女はただひたすらに手を伸ばし続け、その悲しみに包まれた世界の中で蹲(うずくま)りながら 「私は遠野君のことを。きっと明日も、明後日も、その先も。やっぱりどうしようもなく好きなのだと思う」とそう語り終え、この物語に一旦の幕を降ろすのです。まただからこそその瞬間。私の中で燻っていたあらゆる感情がそれまで向かっていた方向とは真逆に舵を切り始めたというか、そんな “届かずとも届けるため必死に手を伸ばし続ける少女の姿” への感動が確かに付加され、初めて私は彼女のことを心の底から愛することが出来たのだと思います。そして何より、それこそが “遠く” を望むことの秀麗さであり、その美学でもあるのだと。


手を伸ばし、背伸びをし、自分の可動限界を超えても尚、傷ついた身体を抱きとめながら遠くにあるものを追いかける心の強さであるとか、そうした姿勢の美しさであるとか。それは想いを引きずることも、憧れを抱くことも、夢幻(ゆめまぼろし)を見ることも決して恥ずかしいことではなく、むしろそこにこそ想う・願うことの尊さは象られ、そうした経験を糧に人は強く生きていけるのだろうといメッセージが刻み込まれていたのだと思います。

秒速5センチメートル』 と 『コスモナウト』

またそうした想いの直向さという点では、貴樹と花苗で重なる部分は間違いなくあり、その違いも簡単に語ってしまっていいのなら、おそらくそれはその相手と両想いかどうかというその一点に尽きるのだと思います。彼ら二人が感じていた想いを寄せる相手との遠さ、それも物理的な距離と感情的な距離とではあるけれど、それでもその先にあるものを共に望み、見据えていたという点ではまさしく同列の存在で、むしろ貴樹はそんな花苗が辿るであろうここより先の物語を一足先に歩んだ人物像としても描かれていたのではないでしょうか。

届かなくなった手紙。送る宛てのないメール。けれど彼の中にはいつまでもその “原風景 (貴樹と明里が両想いだった頃) の先の物語” が幻想的に描き出され、それ故に 「きっといつかまた ――」 という淡い希望の中に彼はその足を止めてしまった。

過去に体験した壮大なまでの青春劇に心を囚われ、それも今や遠い場所となったあの頃の記憶と想いを真っ直ぐに未だ見据え続ける彼の姿からは、それこそ 「それでも、僕は明里のことを。きっと明日も、明後日も、その先も。やっぱりどうしようもなく好きなのだと思う」 という言葉さえ聞えてきそうなほどで、むしろそんな直情的な想いを映像と歌として劇的に抽出したものが 『One more time, One more chance』 という言葉の本質でもあったのではないでしょうか。

秒速5センチメートル(2) <完> (アフタヌーンKC)

秒速5センチメートル(2) <完> (アフタヌーンKC)

また、そうした貴樹と同じ道を辿った花苗の将来像というものも、実はコミカライズ版 『秒速5センチメートル』 にて描かれている部分ではあったりもして、その終章である 『コスモナウト・アフター』 とでも言うべき物語においてはやはり過去の想いに囚われた花苗の姿がしっかりとそこには映し出されているわけです。

そしてそれは本編第3章 『秒速5センチメートル』 における貴樹の姿や心境とも大よそ同じ輪郭をもって重ねられる想いの切実さであり、恋をしていたあの日々の風景を振り返り見据え続ける一人の少女の孤独と哀愁でもあるということで、やはり私はそこでも遣る瀬無い感情の動揺をどうしても隠すことができなかったのです。

でも、だからこそ。貴樹が踏み切り越しに “明里” の幻影を見つめつつ、それでも尚、そうした想いを糧として踵を返し、小さな微笑をその物語の終幕において見せてくれたその心情と同様に、だからこそ花苗もまたその最後の瞬間だけは小さく微笑み 「もう、大丈夫」 と、そう心穏やかに言葉を紡ぐことができたのではないかと思うのです。

またそれ故にそこで証明されるのは “手の届かないものに手を伸ばす” ことの “美しさ” や “強さ” であり、その想いを抱き続けることの “尊さ” で、『秒速5センチメートル』 『コスモナウト』 という二つの物語を通すことでこの作品はそうした願いを一貫して視聴者に対し託し続けていたのでしょう。

遠くを望み、手を伸ばした先において例えその指先が空を裂いたとしても、憧れを抱き、想いを馳せたその記憶だけは決して失われない、みたいなそんな願いだとか、あわよくばそうして懸命に抗い生きた “あなたたち” のこれからに多くの祝福が訪れることを、みたいな祈りだとか。むしろそんな “願い” や “祈り” を感じることができたからこそ私は多くの痛みを引き摺りながらでさえ、前へ進むため遠くを望み続けることの大切さをこの作品から貰い受けることができたのだと思います。

『空と海の詩』 そして 『言の葉の庭』 へ

また、そうした紆余曲折的な人生を尊ぶ賛歌として奏でられた劇伴 『空と海の詩』。花苗が波の上に立つに至るまでに流れるこの曲は、まさにそれまでのアンニュイでいて弱々しい世界観を払拭するほどに高揚感溢れる曲調をその持ち味としているわけですが、実はこの曲名。先程も少し触れたコミカライズ版 『秒速5センチメートル』 における終章、云わば 『コスモナウト・アフター』 におけるその章のタイトルとしても使われていたりするのです。そしてその理由を考えてみれば必然として 「ああ、やはり ――」 という感慨に浸ることができたのは私にとっても最大級の感動であったようにも感じていて。

それはあの日、「一つずつ出来ることからやる」 とそう決意を胸に手を伸ばし続けることを誓った花苗に対し贈られたあの曲が、長い年月を経てまた再度、 今度は 「ここから少しずつ」 と誓った彼女の背中を押す言葉として、澄田花苗という一人の少女の物語に対し二度目の祝福を贈ったのだという、そんな解釈で。

またどこか遠くの “空” を見据え続けた貴樹と、荒れ狂う人生という名の荒波に飲まれぬようその “海” に対し抗い続けたあの花苗の姿を思えば、やはり 『空と海の詩』 という言葉は、『貴樹と花苗に贈られた人生賛歌』 ともとれるところで、例えばそんな風にこの作品を解釈することが出来るなら。より一層として、『秒速5センチメートル』 という作品はポジティブな感情を伴ってその物語に幕を閉じることができるのではないでしょうか。


けれど、もしその終幕にこそ幸福に包まれた想いのかたちを観たいのだと思う方が仮に居るのなら。きっと、その物語は新海誠監督の最新作 『言の葉の庭』 の中にこそその姿を映し出し、この 『秒速5センチメートル』 という物語よりもずっと素直に二人の男性と女性によって描かれる “手の届かないものに対し手を伸ばす” ことの幸福を劇的に語り掛けてくれるのではないかと思います。

もちろんそれはどちらがどちらより、という話などでは決してなく、まさしく 『言の葉の庭』 は 『秒速5センチメートル』 の前向きな感情を源泉とし、そこから幸福を抽出した物語だったのではないかということで、まぁそんな余談を含みつつ、この長い文章もこの辺りで締めさせて頂きたく思います。

それもただ一つ、澄田花苗という少女に対し、親愛と感謝の意を込めて。これからも定期的に観返してはその秀麗さと尊さに心を震わせつつ、その度に深く、この作品を心に刻み込んでいければなと思う次第です。


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