『響け!ユーフォニアム』 12話の演出について、その反射する光の向こう側

密会の如く校舎裏でセッションを奏でる麗奈と久美子。その姿と表情に反射する陽の光はまるで、懸命に今を駆け抜ける彼女たちへ贈られた祝福そのもののようでした。それもおそらくは足元から光が反射していたに過ぎない映像ではある反面、その光はさながら舞台上の彼女たちをライトアップするかのように久美子を物語の主役足らしめていたように感じられました。

そして夏の陽射しが作りだす校舎の影の中、ひっそりと個人練習に励むその姿を照らす光は、巧く吹けないことに焦りを感じる少女の姿をただ「美しい」と形容しているかのようでした。例えるなら、「好きだから」「上手くなりたいから」と、ただそれだけの理由を糧としてがむしゃらに走り出せる真っ直ぐな視線にまるで恋でもしてしまったかのような映像美。先の見えないもどかしさや不安、焦りを“この瞬間”の情熱が勝ってしまったがための映像の秀麗さ。


その美しさに名前をつけるのだとすればまず間違いなく『青春』と名づけてしまうであろう程に、あの映像からは手を翳(かざ)したくなる程の眩しさが溢れていたと思います。むしろ、本来であれば校舎の陰で練習に没頭する彼女の不安を捉えればいい場面に敢えて光を反射させたのはだからだとも思うのです。つまりは、ネガティブな感情とポジティブな感情のコントラスト。その境界でもがく懸命な姿をこのフィルムは寡黙ながら美的に映し出したかったのだろうということ。そしてそれは他でもなく、この物語が彼女たち吹奏楽部の生徒たちに大きな期待を寄せていたことの証左でもあったはずです。

まるでひっそりと離れた場所から久美子たちを見守るよう配置されたカメラの距離感もそうでしょう。これらの距離感はこの物語が彼女たちへと注いでいた“期待の視線”としても十分に機能していたはずです。まるでドキュメンタリーのように陰ながら映すことの意味というか、触れることのできない距離でじっと撮る、というのはそういうことなのだろうと思います。

またそれは「久美子ちゃんは月に手を伸ばしたんです、それは素晴らしいことなんです」と緑輝が語ってみせたこととも同義であり、それはこの作品を手掛ける人たちの代弁足り得る言葉でもあったのだろうと私は考えています。「届かないように思えるものを必死に追うことはそれだけで素晴らしいんだよ」と、つまりはそういうことなのでしょう。


それこそ、ありとあらゆるモチーフと演出がこれまでも雄弁に語り掛けてきたように。この作品には青春を駆け抜けようとする子供たちの背を、映像という側面から力強く押してくれるという信頼がある。そしてそれは他でもなく、中川夏紀、吉川優子、中世古香織らの幕引きにこの作品が添えてくれた映像にも感じることの出来る“この物語の優しさ”でもあるのだと思います。敗北の後に残る悲壮感を悲壮感として描かない。それだけでは終わらせない、という本作のスタンス。例えるなら、それが“優しさ”であり、“期待”であるのだと。

泣き叫ぶ久美子の表情に月の光がかかるのも同じことでしょう。苦境や挫折といった青春と隣り合わせの苦しみを“青春特有の美しさ” と捉え、それを映像で表現する『響け!ユーフォニアム』独特の境地。また彼女の想いに同調するよう蒼く静かに燃え、その変化の兆しをしっかりと照らし出してくれた月の輝きは久美子に向け贈られた祝福そのものでもあったのだと思います。「悔しくて死にそう」と語り涙を流した少女の青春の輝き。そんな風に、人目も憚らず泣ける程に何かに情熱を傾けることが出来るというのは、とても素晴らしいことなんだよ、と。


そんな本挿話において描かれたも想いと期待を馳せつつ、来る最終話を今は心から楽しみに待ちたいと思います。