『漁港の肉子ちゃん』の芝居・身体性について

冒頭で描かれた肉子ちゃん、波乱万丈の半生。そういった物語とは打って変わり、本編で描かれたのは徹底した生活風景とその中で巻き起こる感情の起伏、そして関係の変化でした。特に多かったのは船内での母子生活。寝転んだり、料理をしたり、食べたり、トイレに行ったりと、それこそ中盤で語られたようなとても普遍的な、けれどそれこそが幸福であるような生活風景を描くことに、本作はとても拘っていたように思います。それは肉子ちゃんの少し大袈裟で、大きな弧を描くよう動く一つ一つの芝居からも顕著に表れていました。ある意味エフェクトっぽく、ある意味で人間臭い。パート毎で描かれたアニメーターの方々の特色はあるにせよ、基本的にはそういった軸を持って彼女の芝居は描かれていたはずです。リアル系の芝居というよりはケレン味のあるデフォルメの効いたフォルムと動き。ちょっと下品に映る瞬間もありますが、でも生活って本来そういうものだよねと思えるような、だからこそ愛せるような。そんな "生き生きとした瞬間の連続" が本作の根幹を成していたと言っても過言ではないはずです。

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そして、その延長上に描かれたものこそが娘である喜久子(キクリン)の身体性でした。肉子ちゃんとはまた別ベクトルの、けれどこちらも確かに "生" をより強く実感させてくれる芝居。運動が得意なことが伺えることまで含め、そうした彼女の溌溂(はつらつ)とした動きを描くことにも本作は拘っており、その中でも彼女が走るシーンというのは特に印象的でした。スラッと伸びる四肢が力強く伸び、前へ前へと進む姿にはそれだけで魅力的に映る力強さが宿っていて、この作品が主題に据えていたであろう "生きる/生きている" という実感がより鮮明に感じ取れる瞬間にさえ成り得ていました。

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このシーンなども同様でした。二宮の通う施設からマリアの自宅へと駆けていくシーンだったと思いますが、彼女が抱える感情の発露を促すような、時に非情なこの世界の中で必死にもがこうと懸命に走るキクリンの姿、絵の力にとても感動させられたのを今もハッキリと覚えています。

 

もちろん本作の中で走るシーンが多かったのかと言えば決してそうではありませんが、例えば運動会の借り物競争で肉子ちゃんが奮闘するシーンが本作におけるハイライトの一つになっていたこともようは同じ理由なのだと思います。作画的な風合いは違えど、そこに宿っていたもの、走るという行為にはやはり "懸命に生きる" という情念がふんだんに込められていて、その背景には彼女たちの境遇や経緯(いきさつ)がまるで走馬灯のように流れていくのです。そんな風に、この作品は "人が営みのため動く瞬間" へとスポットライトをあて、その風景をより克明に強調してくれていました。そしてそれは前述してきたような生活描写においても同様であり、この物語はそんな芝居作画とそこから育まれる身体性によって "生の実感" を強く描き出そうとしていたのだと思います。

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それを一番強く感じ取れたのが終盤の回想シーンでした。なんてことはない、まだキクリンが幼かった頃の母子のやり取り。仕事で疲れ果てた母親を元気いっぱいに応援する娘の姿が映し出されるという、物語的にもとても感動できるシーンではありますが、特に私が感動してしまったのはその描写をこうしたアニメーションで描き切っていたことでした。なぜなら、このシーンそのものが前述してきたような芝居とその身体性によってより強いドラマを生み出していたからです。

 

親友が置いていった大切なものを身を粉にして守ろうとした肉子ちゃん。その手のひらに残ったものがこの光景であり、元気に動き回るキクリンの姿なんだと訴える物語の帰結。些細な芝居が、動きが、その子供らしいまばらな挙動の全てがそういった背景の流れを重厚に支えてくれている。つまり、ここで描かれた幼少期のキクリンの芝居、身体性が肉子ちゃんたちのこれまでの人生そのものを強く肯定してくれるのです。そしてそれは、時に豊かな芝居作画が感情や物語に説得力を与えることへの証左にすら成り得ていたのだと思います。

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それは本作で度々見受けられた、肉子ちゃんの表情が一瞬リアル調になるというギミックとも同じ輪郭をもって語ることの出来るものでした。冒頭でも書いたように彼女の芝居というのは基本的にデフォルメされていて、時にコミカルだったり、コメディに寄っていたりとその芝居づけの豊富さも多岐に渡っていたわけです。それでも彼女が一番大切にしているもの、心の奥にある感情が滲みだす瞬間はこういったとても繊細な芝居で描かれる。それはやはり、その時彼女が抱いていた感情に説得力を出すためであり、今あるこの瞬間、生活風景そのものを掛け替えのないものだと示すための描き方でもあったはずです。だからこそ、この作品が肉子ちゃんのああいった表情*2で締め括られる意味というのはとても大きく、本作がどこまでも今ある生活風景というものを大切に扱い、その風景をしっかりと描くために芝居というものに拘りを持っていたかが分かる幕切れになっていたと思います。

 

 徹底した生活芝居、丁寧で繊細、時に躍動感ある作画によって強固な軸 (主題) をより動じないものへと昇華させた今回の作品。私にとって、まさにアニメーションで感動するという原体験を呼び覚ましてくれるような映画でした。

*1:サムネ参考:

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*2:リアル調で描かれた肉子ちゃんの「おめでとう」という台詞、その芝居