ドローン撮影とアイドルMV、それとアニメについて

先日、現在六本木にて開催されている櫻坂46の展示会『新せ界』にようやく行くことが出来ました。各衣装やCDジャケット、MVに至るまであらゆるコンセプトについて触れられ、それが形態を持って彼女たちの成長過程と共に記されたまさに圧巻の展示会でした。展示物の多さという点では決して大規模なものではないものの、その濃度とグループが目指すアーティスティックな演出は 「これが櫻坂だ」 と奥歯を噛み締めたくなるほどの空気感を醸し出していました。少しでも櫻坂というグループ、もしくはその前身である欅坂に興味がある方は是非行かれてみては。

 

と、そんな前置きをしつつ。その展示会のあるエリアの中に、個人的に少しだけ気になる記載がありました。それはMV『BAN』についての記載。「ドローン革命前夜」という文言でした。

いや、これも書かれている文章をしっかりと読めば、舞台として選ばれた兵庫県の施設が2000年に建設されており、その年が丁度ドローンによるMV撮影の革命が起き始める前時代の年だったということでしかなかったわけなんですが。ただ何を読み間違えたのか最初読んだ時には、このMVがドローン撮影の革命を起こした、という様なニュアンスで読んでしまったわけです。ただ一つだけ、そこであながち間違いではないと言えることがあるとすれば、それは私がドローン撮影というものに感銘を受けたのは櫻坂46のMVが初めてであったという点で、その点に関してのみ言えば私自身にとって櫻坂との出会いはまさしく "革命前夜" であったわけです。

それがこの楽曲『Buddies』です。奇しくもコロナ禍という状況下で出会うこととなった坂道グループの存在。初めは乃木坂46。そして日向坂46、櫻坂46。そうして色々なMVを観漁っていく中で投稿された本MV。イントロから始まる圧巻のカメラワークとメロディの調和。クレーン撮影とも空撮とも違う映像の妙。自身の中で "何かが始まる" 予感を存分に感じさせてくれるその演出にただひたすらに感動したのを今でもハッキリと覚えています。

櫻坂ファンの通称 "Buddies" を主題に据えた楽曲であることをより意義的に魅せるよう、櫻坂46の現在地とその周囲全体を巻き込むようなカメラワークで構成されているのがとても胸に迫るものがあり、見入ってしまいます。実際に本MVの展示にも同様な記載があり、「再スタートにかける前向きな気持ちを、ドローンを使ったスピード感ある映像で捉えた*1」とも記されていました。少なくとも私にとってはアイドルMVの革命と呼んでも差し支えない映像であり、この作品と出会えたことで世界 (価値観) が広がっていきました。

他にも『車間距離』『Dead end』『思ったよりも寂しくない』などのMVで要所にドローン撮影と思われるカットが使用されていて、それぞれのMVにダイナミックさや広大さを与えています。

ただよくよく考えるとドローン撮影的なものって他にも既に観ていたはずなんですよね。乃木坂46の『ジコチューで行こう!』とか、『裸足でSummer』の冒頭なんかもドローンで撮影されているはずです。あとは尾道で撮影されたドローンによるワンカットMVとして界隈では有名な、STU48の『風を待つ』とか。まあ色々ありますよね。

 

ライブステージを真上から撮影するカメラアングルなんかもありますが、それに準ずるような衣装の靡きやフォーメーションの美しさ、またエモーショナルな映像の質感、迫力などを加味できるドローン撮影はそれこそアイドルMVにとってはかなり親和性が高いのかも知れません。主役(センター)の少女から大所帯のグループ像まで一気に引いて見せれるという強みもあったり。その使用意図はきっと多岐に渡るものなのだと思います。もはやドローン撮影による引き出しの多さは坂道系、しいてはアイドルコンテンツの十八番的な演出とも言えるのかも知れません。

調べたらゆずの楽曲にもドローン撮影を活かしたものがありました。CG込みの映像ですが、元となった映像はドローンを飛ばし実際に撮影されたようです。ただこれが2015年の7月公開。翌年同月に乃木坂の『裸足でSummer』が公開されたことを見るに日本のMVにおいてはこの辺りが丁度ドローン撮影の技術が駆使され始めた頃なのかも知れないなとかはなんとなく思いました(調べたわけではないので適当ですが)。ただハリウッドでドローンが使用され始めたのは2012年の作品を契機にした辺りらしいので、技術時差的には丁度いい感じなのかなとかは感じます*2

2021年、藤原さくら『mother』。どちらかと言えば壮大さ、広大さを演出するための意識が強い印象。おそらくこの辺りの時期になってくると探せばいくらでもドローン撮影を駆使したMVは出てくるのだろうと思います。


アイドルマスターシャイニーカラーズの無人ライブでもドローンが舞い上がっていました。このライブの開催時はオンライン視聴していましたが、ドローンの導入とそれを使用した演出にかなり感動したのを覚えています。観客のいない中、どうライブを画面上で彩り伝えるかを考えた末の手法の様にも当時は感じられました。先述したような、まさしくドローンとライブステージの親和性ですね。これが2020年。2018年にはアイドル系のライブでドローンが駆使されていたようですが、こういった円形360度的な使用を現場でされているのを見るのはこれが初めてだった様な気がします*3


2022年には櫻坂のドームコンサートでも使用されています。勝手知ったるといった感じで、演出面での使われ方が非常に良く映ります。実際現地のモニターにドローンの映像が映っていたかは正直もう覚えていないんですが、こうして映像として出力した時に映像作品として成立するものを一発撮りで撮れているのは凄いなと思わされます。入念なリハーサルを積んでいるのだろうと言われればそれまでなんですが、それでもやはり凄いなと。アイドルに限らず、これからはライブ会場でドローンが舞うのがスタンダードになっていくのかも知れないな、という予感すら感じさせます。

 

一方、こういうことを考えていくとアニメではどうだったっけ?という思考になってしまうのはもう必然というか、仕方ないというか。そうして記憶を遡っていくと、そこには私にとっての "アイドルの原点" が見えてきたのはなんだか巡り巡ってという感じがして面白いな、という気持ちになりました。

THE IDOLM@STER』最終話。圧巻のライブパフォーマンスを作画で描き切った素晴らしいシーンです。思い起こせばこのカメラワークはドローン撮影のそれでしかありません。放送が2011年であることを考えれば原典的にはラジコンヘリカメラなのでしょうけど、こういうのを見ると空想とアイデアを具現化できるアニメーションの素晴らしさを改めて実感させられます。

『劇場版 THE IDOLM@STER 輝きの向こう側へ』。こちらも同様のドローン的カメラワーク。なめるような導線がよりそう思えるような質感を生み出しているように感じます。

 

誤解を恐れずに言うのなら、アイドル作品の演出として圧倒的に正しく、お手本のような演出だと思います。ライブの高揚感とアイドルの躍動感、その表情を捉える手際の巧さ。余りにも真似がしずらいお手本ではあると思いますが、ある種一つの到達点の様な気さえしてきますし、一周回ってこれが先程挙げたシャニマスや櫻坂のライブの様なカメラワークとして現実の物となっていることを考えると、何だかとても感慨深いものがあります。

『ブラック・クローバー』35話。カメラが並走してる様に感じるものとドローン感のあるものって別に区分けの定義があるわけじゃないですし、こと実際的にはカメラを使用していない(カメラ撮影していない)アニメにおいてはその定義って物凄く曖昧だと思うんですけど、想定線的なものを越えてカメラが逆位置に移動してからの浮遊感とかは結構ドローンぽいなと思います。

 

あとはこのカットも確かそうだったと思うんですけど、Blender登場以降のアニメ作画の展望って大きく拓けた印象があって、より一層空間を意識したアクションが多くなったんじゃないかなあという気がしています。ドローン感っていうのも結局は浮遊感と空間(実存さ)の提示が大きな割合を占めていると思っているので、そういう意味でもこのカットは個人的にもかなりエポックな作画でした。

櫻坂46『Dead end』MV、そして『ワンダーエッグ・プライオリティ』7話のドローンカット。こうして見比べると、アニメならではのタイミング (コマ操作) の面白さを感じますね。通底しているのはやはり迫力とダイナミックさで、終盤シーンに向け高揚感を煽る意味としてもよく機能しているカットとなっていました。こうカメラが鋭角にぐわーと切り込んでくるショットって凄く良いですよね。ダンスシーンも相違なくアクションではあるので、こうして改めて観るとドローンショットとアクションの親和性というものをよりよく感じられます。

擬似ドローン的な。比較的こういったカットは各所で見られる気がします。鳥視点というか、鳥追走系だったり、立体回り込みだったり。特にFGO系のアニメCMだとこんな感じのカットが多い印象あるんですけど、あまり印象語りを多くするのも不毛なので、まあこれくらいにしておきます。正直アニメは余りにも自由なので、ドローンがどうこうっていう次元にはないとは思うんですけど、でも現実で上記MVだったりライブの様な素晴らしいドローンショットが生まれゆく中にあってはアニメもそこにリンクしていく部分があるのでしょうし、逆もまた然りなので、ドローン撮影だったり疑似的なカットが好きな自分としては双方の発展とこれからが非常に楽しみで仕方ないな、といった感じです。

ドローン感のあるアニメのカットと言われてすぐに思いついたのはこの辺り。クライマックス感。何度見ても最高ですね。*4*5

※この記事はドローン撮影の歴史やアニメにおけるその流れを追ったものではありませんので、詳細などは別途お調べください。

*1:『櫻坂46展「新せ界」図録』より一部抜粋

*2:ハリウッドでは2000年頃からラジコンヘリによる同様の空撮は行われていた

*3:他にもあるのかも知れませんが私が観てきた中では初めてだった

*4:言の葉の庭のはちょっと違う気もしますが

*5:アイキャッチ用画像:

僕と作画と

アニメを観なくなってから大よそ3か月くらい。友人から借りた劇場版アイカツ!のBDを観たりはしましたが、それを除けば自主的にTVアニメ等をこんなにも長い間観なかったのはおそらく10年以上前だと思います。それは私がアニメを観始める前の時代です。深夜のお笑い番組が好きだった私はまだ深夜枠だった『モヤモヤさまぁ~ず』や『Qさま』を筆頭によくTVを観ていました。でもある日、適当にチャンネルを回していたらとあるアニメが丁度よく始まりました。その日に観たアニメは私の中で "何か" 特別な予感があって、言葉にならない不思議な感覚もあって、否応なくとても惹きつけられたのです。

その作品は『けいおん!』というタイトルでした。そして、私がアニメとその文化を好きになる切っ掛けとなった作品でもあります。当時の放送では最初に唯が目覚めてから学校に走っていくまでの過程がアバンとして描かれていたと思うのですが、あのシーンには目が釘付けになりました。何かが始まる。何故だか胸が躍る。特段アニメを好きでもなかった私でしたが、観終わったあとには必死でネットを検索したのを今でもハッキリと覚えています。偶然の出会いであったため作品名を失念していたんです。その後に作品名を知って、これまたなんとなく登録していたニコニコ動画でも検索をしたりしました。

確かこれは放送日の翌日くらいに上がっていた動画だったと思うんですが、正直これにも衝撃を受けました。MADという文化との出会いであり、カルチャーショック。多分ああいう時に使うんでしょうね。デカルチャーって。この後にGONGのマキバオーとか、とらドラのMADとかなんかそういう動画にたくさん出会って感銘を受けたのを今でも覚えています。その後にめちゃくちゃハマったアイマスとかもそうでした。自分は作画MADも好きなんですが、どちらかと言えば初期衝動に近いのはアニメMAD系の動画で、石浜さんのOPやURAさんのムービーに惹かれるのはそういったことが理由なのでは、とか今この文章を書きながら思いついたりしました(思いつきです)。

でね。話が一気に飛んじゃうんですが、結局私にとってのアニメの、そして作画の原点って京都アニメーションなんだなって思ったりするんです。これは優劣を付けるとか、何かと比べるとかそういうことじゃなくて、"私とアニメ" の歴史を振り返った時にもうどうしようもなく気づかされてしまうことでしかないんです。生活芝居というジャンルが好きになった理由も、繊細で寡黙な、それでいて雄弁に語り掛けるような映像に恋焦がれてしまった理由も、生き生きとした彼/彼女たちの視線の先に想いを馳せるようになってしまった理由も全部、京アニの作品が切っ掛けです。だってアニメを好きになった切っ掛けがそうなんですから。私個人レベルの世界においてはもうそれをひっくり返すことなんて決して出来ることじゃないんです。

 

でも、そういう基盤があるから。私という絶対的な基盤がちゃんとあるから。だからよりアニメーションの世界の広さに傾倒出来たし、のめり込めていけたのだとも思います。京アニにはない演出、作画表現、物語の数々。ああ、アニメって面白えなあって。たまんねえよって。そう思えたことがとても幸せだったんです。うん。幸せだった。そんな日々のお陰で今が在るし、だから今日も生きている。そう言いたくなるほどに、たくさんのアニメに助けられてきました。

田中宏紀さんの作画にドはまりしたり、スゲー!好きだなー!って思った作画は結構な確率で吉成曜さんだったり。別に私はパート当てが得意なわけじゃ全くないですし、むしろ分からないことの方が圧倒的に多いんですけど、でもそういうことを振り返っていくと、アニメーターの仕事って面白さでしかないよなとはやはり強く思うんですよね。

 

時をかける少女』のコメンタリーで青山浩行さんが「それぞれのアニメーターが一つの事象を各々がどうやって表現するかということに興味がある」的なニュアンスのことを仰っていたと思うんですが、どちらかと言えば私も本当にそれなんです。エフェクト一つとってもそうです。手足の動かし方、走り方、髪の靡き方、絵そのものの違いとか。その差に面白さが在るし、その振り幅の豊かさが物語の感情曲線と重なってとんでもない感動を生み出すことがある。表現としての作画そのものが物語に成り代わる瞬間だってある。それって余りにも凄いことだと思いませんか?

私は、そう思うんですよね。言葉がなくても、会話がなくても、時に表情がなくても、ことアニメにおいてはその大部分を作画で表現することだって出来る。まあ演出とか音楽(BGM)とかもそうですけどね。でもやっぱり私の経験則から言わせてもらえば、そこに作画というセクションが大きく関わっている割合はやっぱり物凄く大きいです。もちろん私は一視聴者であって、アニメ制作側の人間ではないので技術的な深掘りみたいなことにはほぼほぼ興味もないんですけど、でもそういった部分をも越えてアニメーターの個性さえ物語の一部になることがあるんですから、やっぱり本当に、どうしようもないくらい作画は面白いんです。

 

ただ最近というか、昨年秋頃くらいかな。少しずつ色々な理由が重なってアニメを観なくなることが多くなって、いよいよ今年に入ってからは全くと言っていい程アニメを観なくなってしまいました。アニメそのものも好きだけど、作画そのものも好きだけど、その周囲の音たちに好きだった気持ちが摩耗し、疲弊していくのは余りも早く簡単で、脆く、こんなにも自分の感情って簡単なものだったんだなってことを知りました。数か月アニメ観なかったくらいで大袈裟だわって思う方もいるかも知れません。でも十年以上ずっと続けてきたことが出来なくなった(何も感じられなくなった)んですから、私にとっては凄く大きな出来事でした。

でもここ数か月色々休んで、難しいことからもしがらみからも解放されて、心が自由になっていた時、ある日ふと自分がアニメを好きだった頃の気持ちを反芻する時間があり、物思いに耽ったりしていました。気づいたら作画MADを観ながら、泣いていました。そこはアニメじゃないんかいという突っ込みは当然入るでしょうが、でも私にとっては同じことでもあるんです。ああこのアニメのこのパート好きだったなとか、ここのパートはこの時の物語的にこうでああだったから良いんだよな、とか。だってそういったアニメを観ていた時の感動と感情が少しずつ還ってくる場所が作画MADでもあるんですから、良いんです。まあでも結局、『明日ちゃんのセーラー服』を観直して泣いたり。部分的にですが『MUNTO』を観て良いなってなったり。ああ、好きなんだなって。ちゃんと好きだったんだなって。そう強く想い返せたことが今の私にとっては余りにも大きな財産であり、救いそのものでした。

 

「僕らの人生に咲き誇り続ける、語り続けたくなる」そう謳った曲なんかもありましたが。一度ちゃんと好きになったものはもうどこまでもいっても人生の一部で、切っても切り離せないものなんだなと今さらになって実感させられました。それは見方によればもしかすれば呪いに近いのかも知れませんが、それでも。今のこの気持ちともう一度向き合っていきたいなとちゃんと今は思えているので、一周回れば呪いというものも得てして可愛げのあるものなのかも知れないなとさえ感じています。まあ晴れ晴れしてるってことですね。とてもスッキリしています。難しく考えることもやめて、斜に構えることもやめて、好きなことを好きと言い張れる自分をまた少しずつ取り戻していければ嬉しいです。私とアニメと、僕と作画と。過去の自分がその後に託したはずの言葉をもう一度だけ、いつの日かちゃんと手繰り寄せるために。頑張るます。


 

 

アニメと自動販売機、その風情について

『ぼっち・ざ・ろっく!』5話のワンシーンについて - Paradism

先日更新した記事でもふれた『ぼっち・ざ・ろっく!』5話における自動販売機前のシーン。少女の心奥底に隠された感情の一片 (ひとひら) を照らし、その輪郭を浮き彫りにする舞台装置として自販機という存在がここまで美しく機能するのかと驚かされたばかりですが、その一方で自販機と青春性ってなんでこんなにもマッチするんだろうな、ということについては結構考えさせられました。青白く光るライトに感じる淡さとか、それこそ思春期特有の内省と陰影の相性とか。その辺りをうまく利用していたのが本作なのはもはや言うまでもないんですが、でもそれって別に自販機に限ったことでは決してないですし、光と影の演出という点において言えば幾らでもやりようはあったはずなんです。でもやっぱり自販機なんだよなって感じてしまう。そういう感情が心の片隅にきちんとある。それこそコンビニの前でたむろする感じのシーンでもいいようなものですけど、どうしたって自販機にはそれ特有の風情があるという不思議な想いに囚われてしまうんです。

それこそ『ゆゆ式』3話のワンシーンとか。"アニメと自動販売機" という特異な括りにおいては他の追随を許さないほど語られ続けてきたシーンだと思いますが*1、ではなぜこのシーンがここまで魅力的に映るのかということを考えていくと、そこに数多ある理由のうちの一つとしてはやはり "自動販売機" という存在を挙げずにはいられないんですよね。もちろん芝居から溢れる情感の豊かさや、人物造形への一助、マジックタイムの儚さ、アングル固定による覗き見の質感、僅か数カットでそれらを内包し青春性を描き切ってしまう演出的強度など理由は他にもたくさんあります。ではなぜ、その場所が自動販売機の前であるとこうも風情をさらにも増して感じてしまうのかと言えば、それはひとえに、よりフラットさが生み出されるからなんだと思うのです。

 

例えばコンビニと違って自動販売機って対面購入ではないんですよね。ようは二人で飲み物を買いに来た場合、そこには第三者が介在しない。つまり無人の環境をつくることに違和感がなく、路地裏など人通りの少ないところに自販機を設置することによってより濃厚な二人の関係値とパーソナルな空間を描き切ることが出来る。そして大切なのはそれがコーヒーブレイクのための舞台であるということ。"一息つく" という行為がより登場人物たちの気を緩め、その心の戸に隙間をつくる契機にすらなっていくのだと思います。加えて "室内に限らず設置出来る" という強みは野外という表現自由度の高い環境下においてより顕著にその効力を発揮していたはずです。だからこそ、その時々の人物心情や物語の感情曲線に合わせて画面を構築しやすいというか。それは『ぼっち・ざ・ろっく!』においても『ゆゆ式』においても同様なんじゃないかなと感じます。空の色味とか空気感の色といった画面の質感に大きな影響を与えるものを物語に寄せながら解釈し直し、描くことが出来る素晴らしさ。実際はそうじゃないのかも知れないけど、決して写実的ではないのかも知れないけど。でもそういうことが出来るのがアニメだし、だからこそ表現できることや伝わることって膨大にあるのだと思います。あらゆる場所に遍在させることの出来る自販機*2に感傷性や青春性が伴われることが見受けられるのもそのためなのでしょう。

『先輩がうざい後輩の話』1話。野外ではありませんが自然光が多く差し込む場所に自販機を設置することで、こちらも空気感とそれに寄せる心情の重ね描きをしています。そして描かれる関係性の描写と心のキャッチボール。自販機前なんて長居する場所でもない、というのがまた良いのかも知れませんよね。言葉も投げ掛けるけど、全て言葉にするわけでもないというか。腰を据えて話し合いはしない。だから完璧なコミュニケーションが取れているわけでは決してないのだけど、でも今はそれで良いと思えてしまう。そんなひと時の安らぎを与えてくれるコーヒーブレイク。風情の塊のような描写ですよね。

GJ部』12話。以下同文。あとはやっぱり青白く淡い光が良いよなっていうのは改めて思います。登場人物へのスポットにもなりますし、滲む想いに寄るためのモチーフにもなる。誰の目にも留まらない場所での秘密の共有という風合いがあるのも良いですね。だからこそ最初に触れたようなフラットさというか、自然体な感じを垣間見ることが出来る。故に心が開いていく。そこに青春性という名のヒューマンドラマを見てしまうのは、もはや必然なのかも知れません。

 

他にもパッと思いつくのだと『AIR』や『とらドラ!』などでも自販機は登場していますが、思い返せばいずれも関係値の構築に関しては一役買っていたなと思ったりしました。あとは『秒速5センチメートル』とか。まああの作品はまた特異な感じがしますが。それこそアニメに登場する自動販売機が必ず何かしらの意味性を持っているのかと言えば、決してそうではないと思いますし、むしろ意味性を内包している方が希有なのかも知れませんけど。でも自分の中にある "アニメと自動販売機" の親和性と、そこに漂う風情がどんなものなのかっていうことはなんとなく今回の記事を書きながら見つけることが出来たのかなとは思っています。まあなんとなくですけどね。それこそ、まあなんとなく良いよねで括れるのも、こういったシーンの深みではあるのだと思います。風情って直感的なものでもあるので。そんな感じです。

*1:個人差はあります

*2:基本的には