アニメと自動販売機、その風情について

『ぼっち・ざ・ろっく!』5話のワンシーンについて - Paradism

先日更新した記事でもふれた『ぼっち・ざ・ろっく!』5話における自動販売機前のシーン。少女の心奥底に隠された感情の一片 (ひとひら) を照らし、その輪郭を浮き彫りにする舞台装置として自販機という存在がここまで美しく機能するのかと驚かされたばかりですが、その一方で自販機と青春性ってなんでこんなにもマッチするんだろうな、ということについては結構考えさせられました。青白く光るライトに感じる淡さとか、それこそ思春期特有の内省と陰影の相性とか。その辺りをうまく利用していたのが本作なのはもはや言うまでもないんですが、でもそれって別に自販機に限ったことでは決してないですし、光と影の演出という点において言えば幾らでもやりようはあったはずなんです。でもやっぱり自販機なんだよなって感じてしまう。そういう感情が心の片隅にきちんとある。それこそコンビニの前でたむろする感じのシーンでもいいようなものですけど、どうしたって自販機にはそれ特有の風情があるという不思議な想いに囚われてしまうんです。

それこそ『ゆゆ式』3話のワンシーンとか。"アニメと自動販売機" という特異な括りにおいては他の追随を許さないほど語られ続けてきたシーンだと思いますが*1、ではなぜこのシーンがここまで魅力的に映るのかということを考えていくと、そこに数多ある理由のうちの一つとしてはやはり "自動販売機" という存在を挙げずにはいられないんですよね。もちろん芝居から溢れる情感の豊かさや、人物造形への一助、マジックタイムの儚さ、アングル固定による覗き見の質感、僅か数カットでそれらを内包し青春性を描き切ってしまう演出的強度など理由は他にもたくさんあります。ではなぜ、その場所が自動販売機の前であるとこうも風情をさらにも増して感じてしまうのかと言えば、それはひとえに、よりフラットさが生み出されるからなんだと思うのです。

 

例えばコンビニと違って自動販売機って対面購入ではないんですよね。ようは二人で飲み物を買いに来た場合、そこには第三者が介在しない。つまり無人の環境をつくることに違和感がなく、路地裏など人通りの少ないところに自販機を設置することによってより濃厚な二人の関係値とパーソナルな空間を描き切ることが出来る。そして大切なのはそれがコーヒーブレイクのための舞台であるということ。"一息つく" という行為がより登場人物たちの気を緩め、その心の戸に隙間をつくる契機にすらなっていくのだと思います。加えて "室内に限らず設置出来る" という強みは野外という表現自由度の高い環境下においてより顕著にその効力を発揮していたはずです。だからこそ、その時々の人物心情や物語の感情曲線に合わせて画面を構築しやすいというか。それは『ぼっち・ざ・ろっく!』においても『ゆゆ式』においても同様なんじゃないかなと感じます。空の色味とか空気感の色といった画面の質感に大きな影響を与えるものを物語に寄せながら解釈し直し、描くことが出来る素晴らしさ。実際はそうじゃないのかも知れないけど、決して写実的ではないのかも知れないけど。でもそういうことが出来るのがアニメだし、だからこそ表現できることや伝わることって膨大にあるのだと思います。あらゆる場所に遍在させることの出来る自販機*2に感傷性や青春性が伴われることが見受けられるのもそのためなのでしょう。

『先輩がうざい後輩の話』1話。野外ではありませんが自然光が多く差し込む場所に自販機を設置することで、こちらも空気感とそれに寄せる心情の重ね描きをしています。そして描かれる関係性の描写と心のキャッチボール。自販機前なんて長居する場所でもない、というのがまた良いのかも知れませんよね。言葉も投げ掛けるけど、全て言葉にするわけでもないというか。腰を据えて話し合いはしない。だから完璧なコミュニケーションが取れているわけでは決してないのだけど、でも今はそれで良いと思えてしまう。そんなひと時の安らぎを与えてくれるコーヒーブレイク。風情の塊のような描写ですよね。

GJ部』12話。以下同文。あとはやっぱり青白く淡い光が良いよなっていうのは改めて思います。登場人物へのスポットにもなりますし、滲む想いに寄るためのモチーフにもなる。誰の目にも留まらない場所での秘密の共有という風合いがあるのも良いですね。だからこそ最初に触れたようなフラットさというか、自然体な感じを垣間見ることが出来る。故に心が開いていく。そこに青春性という名のヒューマンドラマを見てしまうのは、もはや必然なのかも知れません。

 

他にもパッと思いつくのだと『AIR』や『とらドラ!』などでも自販機は登場していますが、思い返せばいずれも関係値の構築に関しては一役買っていたなと思ったりしました。あとは『秒速5センチメートル』とか。まああの作品はまた特異な感じがしますが。それこそアニメに登場する自動販売機が必ず何かしらの意味性を持っているのかと言えば、決してそうではないと思いますし、むしろ意味性を内包している方が希有なのかも知れませんけど。でも自分の中にある "アニメと自動販売機" の親和性と、そこに漂う風情がどんなものなのかっていうことはなんとなく今回の記事を書きながら見つけることが出来たのかなとは思っています。まあなんとなくですけどね。それこそ、まあなんとなく良いよねで括れるのも、こういったシーンの深みではあるのだと思います。風情って直感的なものでもあるので。そんな感じです。

*1:個人差はあります

*2:基本的には

『ぼっち・ざ・ろっく!』5話のワンシーンについて

「成長って正直なところよく分からない」。そんなひとりのモノローグと一連の流れから差し掛かるワンシーン。住宅街であろう道に煌めく看板と自動販売機の中を淡々と歩くぼっちの姿は、そんな変わり始めていく景色の中で心だけが追いついていかないその心境を鏡の如くそこへ映し出しているようでした。ひとりと自販機の関係を縦位置で映せば逆光となり、そういった意味性はより顕著に。単純に逆光とかコントラストの高い画面って情感が出て良いよねという話で済む場面でもあるのでしょうが、この作品がここまで通底し描いてきたことを踏まえれば、やはりそこには "感情的な何か" を感じずにはいられず、彼女の内面に対し視線を向けずにはいられなかったのです。

それは虹夏がやってきてからのカットでも同様でした。逆光で映すことに意味のあるカットの連続。もやっとしていたものにスポットが当てられていく感覚。今この瞬間だけは "そこ" について考えるべきなのだと、まるでフィルムが語り掛けてくるように彼女たちに焦点を絞る画面構成が本当に素敵でした。またこの辺りはアングルも素晴らしく、虹夏の掛け声とともにカメラをすぐ二人へは寄せず、一度ロングショットを挟むその手つきにはとてもグッとくるものがありました。一度距離を置いて、ここが二人にとって特別な場所になることを確信づけるように。あるいはこの場所に彼女たちが居ることの実在感を高めるために。被写体とカメラの距離を空ける。空間と世界を撮る。それから数拍置いて、カメラを近づける。

 

これは1話の頃からずっとそうなんですが、ようはカットが分断的でないんですよね。30分という枠の中で一つの話を成立させるにはある程度 "あってもいいけどなくても成立するカット" は削らなければいけないことが多いと思うんですが、でもこの作品はそういった  "あってもいいけどなくても成立する" 瞬間にとても強い意味性を見出している。この "間/時間" にこそ今の二人の関係性とか気持ちとか、そういった言葉では決して語り切れない部分へ寄るためのものがたくさん詰まっているのだと。だからこそある種のリアル感というものを本作は大切にしてるのでしょうし、そのためにカットを積み重ねていく。舞台や空間を描き、その地へ足が着いていると強く感じさせてくれるような描写を要所で織り込んでくれる。故にフィルム全体がシームレスな流れになるし、物語や空気感が分断されずどこまでも地続きに繋がっていくような気持ちにさせてくれるのだろうと思います。

もっと言えば、それは些細な芝居や視線を描くということにも繋がっているのでしょう。俯きがちな視線、相手を見据える視線。生活芝居に手癖、それらを網羅した繊細な手足の動き、そして表情。作画的な見地から見ればそれは各々が独立した表現としても "凄まじい" と感じられるほどの巧さを持っているわけですが、そういった数々の表現が同じベクトルを持って物語を構築しているのも本作が携える素晴らしさなんだろうと思います。例えばそれはひとりの感情だったり。内に秘める物を大っぴらにはしない虹夏の想いだったり。そんな二人が織りなすコミュニケーションの擦れ違いと支え合いであったりもそうです。逆説的に言えば、そういったものを描くための表現なんですよね。突飛な表現やコメディ全振りの描写もたくさん描かれますが、そういったものまで含めて "彼女たち" なんだと感じさせてくれる。本作のそういった部分に対して愛しさを感じてしまうのはもはや必然なんだろうと思います。だって私は表現を第一にアニメを観ているわけではなく、物語や感情に触れたくてアニメを観ているのだから。

余りにも日常的すぎる芝居が淡々として描かれるさり気なさと、凄み。これほどの芝居作画を描くにはどれほどの才能と努力が必要なんだろうと思わされる一方で、ありふれた日常の一幕が長い尺によって描かれるからこそ滲み出る情感を感じさせられてしまう。もちろんそれは自動販売機から醸し出されるエモーショナルな質感あってこそのものでもあるのでしょうが、でもそれだけでは決してないのでしょう。ひとりの奥に広がる夕景もそうです。この世界の存在と、そこで生きる彼女たちの営みが実在感の担保になっていく。そして実在感があるからこそ、そこで生まれる感情や関係性に説得力が出る。芝居や仕草というのはひとえに、そういったプロセスを繋げるための橋渡しとしても機能しているのだと思います。

ジュースを飲みほしてから一息つき、ゴミ箱に容器を捨て手に付いた露 (つゆ) を払う。シリアスな場面であり、繊細な話をしているからこそ、こういった芝居が描かれることでより彼女のフラットな感情と性格が前面に出るし、そこを感じ取らせて貰える。そして、それがひとりと虹夏の違いとしても表現される。"人それぞれ違う" という話をしていた流れの中で、その違いに言及する芝居。とても素敵ですよね。別に二人はこんなに違うんだぞ!と声高に叫ぶわけでもなく、まあそういうもんだよねと伝えてくれる。でもだからこそ、ああそうだよなって思えてしまう。それが凄く心地良いんです。

一方で「本当の夢」が何なのかを語ろうとしない虹夏の性格がすべて詰め込まれたようなラストの芝居も描かれる。前述したような彼女の人当たりの良さが垣間見える芝居ではありますが、自販機の光によって一瞬描かれる影中の表情が彼女の心奥に秘めた想いに重なっていくようで、このシーンを最初に観た時にはなんだか泣けてしまいそうになったのを今でもハッキリと覚えています。けれど、ひとりにはその繊細な感情の機微は伝わっていないのかも知れないなと思えたりもして、二人の手の振りの違い、芝居作画のニュアンスの変化からもそれは感じられました。でもそんな虹夏の姿を真っ直ぐ見つめるひとりの視線や、そうして佇み続ける彼女の姿を映し続けながらこのシーンを終える意味を考えれば、彼女に "何も伝わっていないわけではない" ということがやんわりと伝わってくるんですよね。それはある種、コミュニケーションの擦れ違いでもあるし、合致でもあるというか。相手を完璧に理解することなんて出来ないけれど、それでも分かり合えるものがあるのかも知れないという祈りのような感情と、人は誰かと触れ合っていくことでもいかようにも変化していくことが出来るのかも知れないという願い。それは "独りぼっち" であった彼女にとってとても希望になり得る瞬間であったと思うのです。

だからこそ彼女は言うのでしょう。「でもそれは、私だけじゃない」と。あの自販機前で過ごした何気ない時間。けれど彼女にとっては掛け替えのない時間でもあり、だからこそ "みんなと一緒に" という感情にも出会うことが出来たのだと思います。あの日、虹夏を見送った時とはまるで違う目尻を上げたひとりの表情と踏み出された一歩からは、そんな彼女の変化をしっかりと捉え切る演出的な強度とその意図をつよく感じ取ることが出来ました。

 

それこそ「結局成長ってなにか分からなかった」と語るひとりではありましたが、もしかすればいつの日か自身の半生を振り返った時、自販機前で虹夏と過ごした時間を指して「あの時に成長出来ていたのかも知れない」なんて思えるのかもなとか考えたりもして。自販機前のシーンをあれほどまで印象的に描いていたのも、もしかしたらそのための布石だったのかも知れません。それは今後私が「『ぼっち・ざ・ろっく!』5話といえば」と聞かれた際にきっとこのシーンを一番最初に思い返すであろうことと同じように。心に残り続ける場面や瞬間というものは往々にして実際より少しだけ煌びやかに見え、印象的に見えてしまうものなのだから。"特別な時間" とそれを彩る演出と、行き過ぎないリアル度合い。自販機の光に照らされる二人の表情を見返しては、そんな風な想いを反芻させられたことがとても嬉しく感じられました。

最近観たアニメの気になったこととか12

『明日ちゃんのセーラー服』7話。体育館の下窓から零れる光がフットライトの替わりとなって二人を照らしていたのが印象的でした。逢瀬。密会。秘密の共有。そもそもが各々の秘密を知り合う構成の話ではあっただけに、こういうカットが描かれたのは納得しかなかったというか。言葉にし難いんですが、思春期の少女たちとその関係性へ微かに光が当てられる感じ、舞台袖での細やかなやり取りの質感ってなんだかこう堪らないものがありますよね。それにこういうカットが積み重なることでより作中における "秘密" の度合いが高まりますし、ラストの音楽室でのシーンがより意味性を帯びるっていうのはやはりあるんだろうなと思います。

余談ですが、ここ十年規模で言えば個人的に一番印象に残っている同種のフットライトカットは『響け!ユーフォニアム』12話におけるワンシーンです。秘密の共有。「特別になりたい」という言葉尻の感情がこの場にこもっていく感じが凄くフェティッシュで、青春性を感じさせてくれました。なんとなくですが、上述した明日ちゃんのカットもこの作品の風合いを意識していたのかなとは感じたりしました。まあなんとなくです。

SPY×FAMILY』15話。シルヴィアの二面性をワンカットで描いていたのが素敵でした。カットを割っても成立するカットですが、敢えて表情変遷にかかる間を大切にし、緩やかな付けPANにより彼女がその内に抱える優しさを画面全体に滲ませていたのがとても美しかったです。カット初めに瞬きの芝居が描かれているのも良いなあと思わされるポイントで、彼女の人間らしさにおける担保足る芝居に成り得ていました。この直後に切り返しでお互いの主観的なアングルからそれぞれの寄りの表情を描いていたのも素敵でした。表情を覗くということ。視線を交わすということ。サングラスの奥に在る瞳の優しさにフォーカスを誘導していくコンテワークに、グッときてしまいました。

『ぼっち・ざ・ろっく!』3話。喜多ちゃんの後ろ髪引かれる感情、その発露に向けた契機をたった一つの芝居で描き切っていた素晴らしいカット。このカットに至るまでは要所でおどけた台詞回しをしていた彼女ですが、一変リアル調の芝居が差し込まれることで曖昧にしていた喜多ちゃんの感情が明確な輪郭を帯びていくのがハッキリと伝わってきました。本当は皆んなとバンドがしたい。その気持ちをスッとこらえるように縁を撫でる手つき。フォーカスが手に当たり切らないレイアウトも素晴らしく、ささやかではありますがそこには確かに彼女の願いが存在していることが分かります。シンクに溜まる感情、まで言語化してしまうのは余りに野暮なのだとは思いますが、情報量の多い画面に対して整然と意味性が据えられていることにも心を揺さぶられます。

 

もちろん声色の変化や台詞回し、前後のカットの脈絡あってのカットではありますが、たったワンカットでここまで登場人物の感情を捉えていたことにただただ感動させられた次第です。