『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』が描く "面と人" について

6月に入るまでは観るつもりがなかった劇場版ウマ娘 "新時代の扉"。幾人かの友人たちの勧めに加えて、地元の映画館の音響が良いスクリーンで上映している内に観ておこうと気持ちが前向きになったこともあり、本日鑑賞してきました。その中で色々と想うことや感動したことが幾つかあったので、それについて少しばかり書き記していこうと思います。

 

もちろん終始途方もない水準で描かれたアニメーションの話や、冒頭から吉成鋼パートがあり度肝を抜かれた話にも触れたい気持ちはあるんですが、今回は物語の、あるいは "人を描くことにどこまでも執着した" 本作の、言い換えればそんな人々に寄せた祈りそのものの様な、そのための演出がここにはあったよねっていう、これはそんな取り留めもない話です。

まず個人的に気になったのは冒頭からジャングルポケットが携えていた多面的な形をしたガラス玉の首飾りの存在でした。空高く投げられたそれはまるで彼女にとっての希望の光の如くそこに映し出されていましたが、それは時折り同じモチーフとしても本作の中で登場していた様に思います。ジャングルポケットがそれをどこで手に入れたのか、どの様な思い出がそこにあるのかなどはほぼ示されていなかったはずですが、おそらくこの首飾りは彼女にとっての "初心" が投影された装置としても描かれていたのだと思います。

 

それはフジキセキのレースを目の当たりにした際に得た衝動。「俺も同じ様にこの場所で走りたい」と誓ったあの日の激情。そしてそんな彼女の姿を確かに今へと繋ぐ架け橋の様な存在。言ってしまえば自己暗示の (己を省みる) ためのアイテムでもあったということなのでしょう。それはまるで「最強は俺だ」と口癖のように語るジャングルポケットの根拠足る証明そのものである様に。理屈ではない極めて感情的な想い、その集積があの首飾りそのものであった、ということなのだと思います。

しかし、アグネスタキオンに喫した皐月賞での敗北により、その魂の結晶とも呼べる首飾りには少しずつ亀裂が生じていくことになります。かの敗戦がジャングルポケットに重く圧し掛かっていることが手に取る様に分かる演出の連続。縮まらない距離。越えられない背中。望めぬ再戦。不穏さや、陰り。かつてあれ程までに妄信することができた初心に対する感情が揺らぎ、そして遂には文字通り元には戻らない程の傷がついてしまう悲しさ。

 

それは、夏祭りでフジキセキジャングルポケットが一緒にラムネを飲むシーンからも同様の情景を読み取ることが出来ると思います。点々と湧き上がる負の感情をラムネの泡に見立てつつ、泡をうまく抜くことが出来たフジキセキと出来なかったジャングルポケットで対比させる構図。もしくは四方に飛び散る花火を楽しむ夏祭りの人々と、どこにも吐き出すことが出来ないネガティブなマインドを抱え続けるジャングルポケットとの対比。故に信念にも疑いが生まれ、傷がつく。あの日に芽生えた感情が指の間からすり抜け、落下し、割れる。この辺りの感情の変遷は分かりやすい大胆な演出を踏まえつつも、それらの見せ方や流れがとてもシームレスでとても気持ちが物語に入りやすかったなとも思いました。でもだからこそ振れ幅は大きく、落ちた分だけ上がる軌道の美しい曲線に心地よく身を委ねられたようにも思います。

 

特にジャングルポケットフジキセキの併せウマ (レース) やタキオンとの再会のシーンからはそういった感触を顕著に得ることが出来ました。それは自分のことが分からなくなった時こそ、人の目に映る自分自身を見つめ直す必要があることとか。ようは相対する他者の視座から新しい自分に出会えることってあるよねっていう余りにも他者に依存した希望的観測のことではあるんですけど。でも人って、ウマ娘ってそういうもんじゃないですか、っていう漠然とした語り掛けがこの作品にはずっとあったはずなんですよね、思い返せば。

だって人は、ウマ娘は一人きりじゃ何も成し得ない。評価すること、されること、勝つこと、負けること、競い合うこと、そして理解をし合うこと。他者が居て初めて成立することばかりの理 (ことわり) の中で生きる私たちはだからこそ誰かと寄り添い、誰かと凌ぎを削り合いながら生きているはずです。別に独りでもどうとでもなると思うこともあるけれど、でもふとした瞬間にそうじゃないことを我々は悟るんです。

 

それは例えば、本当は私もまだ走りたいと祈っていたこととか。本当は自分の足でその限界を見つけたいと願っていたこととか。そしてそれはジャングルポケットにとっても決して例外ではなかったはずです。まだ走り続けていられる最中であるなら 「最強になる」という初心<過去の自分自身>を取り戻せるということも。決して一人では気づけなかった気持ちがあり、独りでは潰えてしまったであろう夢もある。それは史実だけでは決して辿り着けなかった夢の続きを、本作が幾重に渡るシーズンをもって描き続けている事ととてもよく似ていて。一つでは叶えられなかったことも、二つなら。一人では駄目であろうことも、二人なら。そういうとても人情的な、人が人であるが故のテーマ性が根底にあるからこそ、このシリーズはこんなにも私の心を揺さぶり続けてくれるのだろうと思います。

またそれは、本作が虹色の光 (光彩) に執着した演出やカラーコントロールをしていたこととも同義的に語れる気がしています。特にジャングルポケットタキオンが再会する場面、タキオンの部屋にぶらさがっていたジャングルポケットのものとよく似た多面的なガラス玉。あのアイテムを通して虹色の光の粒が部屋中に溢れるシーンの美しさは筆舌に尽くせず、あまりにも鮮明に脳裏に焼き付いているわけですが、あれってダイヤモンドなどの宝石の光学原理とよく似ているなと思ったりしたんです。

 

ようは光が対象の宝石に入り込み、内部に存在する面にその光が反射しそれが繰り返されることで輝きが増し、その光が外に出る際にプリズム効果が生まれ虹色にも見えることがある、というあれです。それこそもしそういった現象になぞらえてよいのなら、ここで言う "面"、または彼女たちが携える多面的なガラス玉の面数っていうのは、そのまま彼女たちが向き合い続けてきた人々の数や自身への省み、あるいはそれによって引き出された新たな自分の側面に相当するとも言えるのではないかと。面が増えればより多く反射し合い、光度が増す。そういった原理も全て本作においては人/ウマ娘たちに置き換えることが出来るんじゃないかって。

 

言うなればタキオンの内面にジャングルポケットを介して手に入れたタキオン自身の新たな側面が追加されたことで、より彼女自身の輝きが増したのだと。そして元を辿ればそれはジャングルポケットにとっても同様で、フジキセキとの邂逅、タキオンによる敗戦、トレーナーとの対話、それ以外にもたくさんの人々、ウマ娘たちとの出会いがあったからこそ彼女もまた新しい自分に出会うことが出来た。タキオンフジキセキジャングルポケットの面を増やし、ジャングルポケットフジキセキタキオンの面を増やす。もしかすればこういった正の連鎖が本作最大のテーマ性だったんじゃないかって、強く想うのです。

それこそレース中の七色のオーラですら、もしかすればそんな面と面の共鳴が織りなした現象なのかも知れないとすら思えたりもしました。光り輝く自由度の高いエフェクトアニメーションはまるで新たな面を獲得し、より光度を増しながら輝くターフの雄姿が如く。敵と相対すること、死力を尽くし並走することで気づく新しい一面。「私がセンターに」「俺が最強に」「勝ちたい」「負けたくない」という闘争心と勝利への渇望。ジャパンカップで描かれたタキオンジャングルポケットの関係性、アニメーションの在り方なんてまさしくそうであったはずです。普段は穏やかで愉快な彼女たちではあるけれど、走る衝動の源はいつだって他者から得られると彼女たちが立証し続けてくれていた様に。だからこそレース後の空や雲間の表情もまた虹掛かって見えたことすら、きっと彼女たちの意思に基づいているのだろうなと思えたことが本当に、とても嬉しかったです。ウマ娘と呼ばれる人々の多面性と、その共存と競争をどこまでも人間らしく、またドラマチックに描いた作品 "新時代の扉"。それを支える演出とアニメーションの強度も加え、もしかすれば本作はウマ娘という作品そのものにすら新たな一面を加え "その先" を描き示してくれたのではないかと、そんな確かな実感を今は得ることが出来ています。

 

長くなりましたが、最後にもう一つだけ。競走馬をまるで "人のドラマの様に" 扱い続けてきた競馬ファン達の想いとの親和性、それを決して手放さずその熱量を常に更新し続けるアニメウマ娘が大好きです。最高の物語と最高のアニメーション、そして私の "夢" の続きをありがとうございましたと、心から。とても感謝しています。