『小林さんちのメイドラゴン』9話の演出について

“この登場人物たちは今なにを見て、なにを想っているのだろう”。それは、私自身がアニメを視聴する際に強く考え、知りたいと願う部分の一つでもあるわけですが、そうした疑問に対する一つの応えをこの作品は鮮明なイメージを持って、いつも誠実に応えてくれているように感じます。それはレイアウトであり、カメラワークであり、間でありと、映像表現によるものが多く、特に本話においてはそれが顕著に表れていたのではないかと思えました。

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中でも一番良いなと感じたのはカンナが小林さんの職場を覗きに行くシーン。仕事の関係上、運動会に来れないと言った小林さんの言葉を確かめるよう彼女の様子を見入るカンナでしたが、その後姿に隠された心情はカットが進むにつれ徐々にその輪郭を露わにしていくような印象がありました。時間の経過、ジャンプカットの様に紡がれていく小林さんの仕事振りをただただじっと眺め続けるカンナの背中。それも彼女の内面に近づくよう、カンナへ映像がカットバックする毎にカメラ(フレーム)と彼女の距離は徐々に近づいていきます。言葉は要らず。じっくりと。ただひたすらに二人を交互に映す映像にはまるで彼女たちを見守るような温もりがありました。

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またそうした温もりあるカメラワークは必然と彼女の心を映す鏡にも変化していきます。なぜなら、カメラはそうした動きを契機にカンナが見つめているもの、感じていることをもしっかりと捉え始めていたからです。彼女をただの被写体として捉えるだけではなく、彼女と同じ視点に立ち、同じものを見ようとすることで映像はその心に触れたような情感を帯びていく。それは、そっとレンズを心に近づけていくような。彼女の言葉をただ待つのではなく、こちらから彼女の言葉を探しに行くようなーー。そんな優しさのあるカメラワークで描かれるからこそ、私たちはカンナの言葉を待たずして、その心に触れたような、そんな気持ちに強くさせられてしまうのだと思います。

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そしてそれは小林さんの立ち位置においても同様でした。「運動会に来なくても大丈夫」という台詞の裏に隠された「本当は来て欲しい」というカンナのメッセージ。それは言葉ではなく、小林さんの視界の先にある彼女の芝居によって克明に描かれていたわけです。もちろん、この場合は芝居が言葉の替わりの役目を果たしているので、一見カメラワークは二の次であるようにも感じられます。ですが、小林さんの視線が降りた先にあの芝居が描かれた意味はきっと想像以上に重いものでもあったはずです。なぜなら、視聴者がカンナの想いを理解するのみで終わるのではなく、ここは “小林さんがそれを理解すること” に意味を見出すカメラワークであったはずだからです。なにより、そうして紡がれたフィルムを経るからこそ、カンナのメッセージを受けた “小林さんの心” に対しても私たちはようやく耳を傾けることが出来るのだと思います。

 

大切なのはカンナの心だけではない。この一つ屋根の下に暮らす誰しもの心が大切であるからこそこの作品は決して誰の感情をも蔑ろにはしない。そしてそれは、この作品がカンナ一辺倒の物語(ドラゴン側の物語)ではなく、小林さんと彼女たち(人間とドラゴン)双方の想いを描くための物語であることをしっかりと伝えてくれていたはずです。一側面だけではない、幾つもの感情。想い。願い。その両翼を広げた作品であるからこそ、この物語からはこんなにも温かく愛おしいものを感じられるのだと思います。

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また、ここのシーンにおいてもそれは同様です。深夜を過ぎた時計の針を映した後に描かれる小林さんの背中。それを見つめるカンナの視線。ともすればカンナの心情だけを捉えたようなシーンになっていますが、小林さんの疲労やカンナのためにと励む彼女の寡黙な姿をもこのカットはしっかりと捉えていたと思います。そしてそれこそがこの作品においてはとても大切なことであるはずなのです。

 

それこそ以前、彼女は 「求められるのに慣れていない」と語っていたはずです。けれど今はどうでしょう。あの時トールの頭を照れくさそうに撫でていたように、何も言わずカンナの求めに応えようと彼女は、彼女なりのやり方で一生懸命に頑張っていました。だからこそ、そんな彼女の姿勢が伝わる画面でこのフィルムが構築されていたことには、やはり大きな意味があったはずです。それはカンナが彼女の背中を見つめていたことも大きな一つの理由として含め、この物語が人間とドラゴンの心の通い(誰かが誰かを想っていること)を描くからに他ならないのでしょう。そしてそれは、今回の件だけを踏まえてのものではなく、やはり彼女たちが心を繋げていく段階を描き映すために、とても重要なことなのだと思います。

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また、そうした段階を積み重ねてきたからこそ、気づけば彼女たちはいつの間にか 「ありがとう」 と当たり前のように言い合える関係にまで繋がっていた。「行くべきかどうかじゃなくて、行ってあげたいかどうか」という話から始まった今回の物語。自分の意思で動いた先にあったものが、精一杯の感謝であることに驚きを隠せなかった小林さんの視線はやがて空へ抜け、「変わったな私の生活、いつの間にか変わったのかな、私」なんていう、おぼろげな結論にまで辿り着いた。見上げる空の境界は曖昧で、それは異種間の隔たりを失くすように、彼女の語る生活と “彼女自身” の変化をただ静かに祝福してくれていたのでしょう。

 

そしてその空の先に小林さんが見据えたもの。ひょっとしたらそれは、これから先も続いていくであろう “彼女たち” が過ごす日々の風景であったのかも知れません。ゴミ箱に見事に吸い込まれた缶の軌道もきっとそれを予見してくれていたはずです。彼女の想いと願いにリンクした放物線。心の真ん中を射抜いた「カラン」と鳴る気持ちのいい音に本話の帰結は託されていたように思います。演出は澤真平さん。初めての処理外の演出でしたが、それでこの仕事。本当にこれからが楽しみな方です。素晴らしい挿話でした。