『けいおん!』11話にみる高雄統子演出について

約5年振りに観返した『けいおん!』11話。澪と律が喧嘩する話としてもかなり有名な本話ですが、その妙にリアルで冷たい空気を感じさせるこの回も私自身の中では大分トラウマとして記憶されていたためか、当時から今一歩「観直そう」という気持ちには至れていませんでした。けれど「今観ればあらゆる印象が大きく変わって観えるのではないか」と背中を押して貰えたのもあり、久しくこの挿話を観てみることにしたわけですが、その通りでした。


それこそこの話ってトラウマなんて言い切れてしまう程、ひどく辛さに満ちた話でもなければ、その画面から滲み出ていたのは決して冷え切った印象だけではなかったんです。むしろ、この挿話を観終え新たに得ることの出来た「この世界はこんなにも優しかったんだ」なんていう印象のお陰で、今はたくさんの幸せで満たされているような気さえしています。

それも一言に言い換えるのであれば“誰かが誰かをみつめる視線”、とも言い得ることが出来るのではないかと思います。喧嘩をする前触れ。苛立つ心。心配する面持ち。想い馳せる感情。その全てをキャラクターの表情 ―― 或いは、その視線一つで ―― 表現してしまうということ。それは 「視線さえ掴めば何を語らずとも想いは伝わる」とも言いたげな各カットにおける感情伝達の方法であり、その1秒あるかないかの、コンマ数秒の“間”によってあらゆることを伝えようとする視線誘導のメカニズム。


つまり、彼女たちは一体誰と向き合っているのかということなんです。むしろそれを最短距離で伝えてくれるレイアウトにこそ、この挿話の素晴らしさはきっと詰まっている。

それは怒りであり、嫉妬であり、優しさであり、愛情であり。ありとあらゆる感情がこの挿話の画面からは多角的に滲み出ているのだということ。またそうしたレイアウトとは逆に“誰のことをも見ていない”と語る視線の置き方だって出来る。視線がない、ということは想いがないということ。視線を向ける相手が居ない、ということは独りであるということ。


それも決して揺れることのないシンバルが彼女の現状を象徴していたように。彼女たちはその視線を向ける相手が居たからこそその心を砕くことが出来たのでしょうし、だからこそこの物語の果てにあの屈託のない笑顔を咲かすことが出来たのだと思います。独白などでは決して解決することのない、徹底した対人。一対一、もしくは対複数によって描かれるコミュニケーションの在り方。むしろ、そこにこそ本話の醍醐味の多くは込められていたのではないでしょうか。

ただそうは言うものの、本当に向き合わせる必要はないし、本当はそれぞれの視線が結び付く必要だってないんです。ただ一つ必要なのは「私はあなたを見つめています」と雄弁に語り掛けてくれる視線・レイアウトの存在だけで、むしろそれさえあれば、私たち視聴者はその先に相手の存在を幻視することだって出来るのだろうと思います。
 

それは澪と律、それぞれの視線の先に、それぞれ互いが思い馳せる相手の姿を“私自身”が思い浮かべこの挿話を視聴していたように。彼女たちは常にお互いを見つめていたし、見つめられることが日常だった。そうした信頼関係と感情溢れる視線の強さこそが構成される画面の全てを支えていたと言っても決して過言ではないはずです。逆に言ってしまえば、そうした信頼に頼ったカメラワーク・コンテワークを巧みに扱うところにこそ高雄統子という演出家の素晴らしさは浮き彫りになるのかも知ません。

それこそ『らき☆すた』22話のこういったカットはとても印象的で、これらのシーンを観返す度に高雄さんの表情や視線の捉え方、キャラクターへの寄り添い方にどんどん惚れ込んでしまいます。それも後続の作品である『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』18話においてもよく重なるシーンが見受けられますし、キャラクターの表情を正面から向き合い切り取ることの出来る高雄さんの強さは現代の『THE IDOLM@STER』シリーズなどにも顕著に受け継がれているように思います。その辺りの話もうまく纏められればいつかしたいなぁとは思いつつ。今回はこの辺りで。