『ぼっち・ざ・ろっく!』5話のワンシーンについて

「成長って正直なところよく分からない」。そんなひとりのモノローグと一連の流れから差し掛かるワンシーン。住宅街であろう道に煌めく看板と自動販売機の中を淡々と歩くぼっちの姿は、そんな変わり始めていく景色の中で心だけが追いついていかないその心境を鏡の如くそこへ映し出しているようでした。ひとりと自販機の関係を縦位置で映せば逆光となり、そういった意味性はより顕著に。単純に逆光とかコントラストの高い画面って情感が出て良いよねという話で済む場面でもあるのでしょうが、この作品がここまで通底し描いてきたことを踏まえれば、やはりそこには "感情的な何か" を感じずにはいられず、彼女の内面に対し視線を向けずにはいられなかったのです。

それは虹夏がやってきてからのカットでも同様でした。逆光で映すことに意味のあるカットの連続。もやっとしていたものにスポットが当てられていく感覚。今この瞬間だけは "そこ" について考えるべきなのだと、まるでフィルムが語り掛けてくるように彼女たちに焦点を絞る画面構成が本当に素敵でした。またこの辺りはアングルも素晴らしく、虹夏の掛け声とともにカメラをすぐ二人へは寄せず、一度ロングショットを挟むその手つきにはとてもグッとくるものがありました。一度距離を置いて、ここが二人にとって特別な場所になることを確信づけるように。あるいはこの場所に彼女たちが居ることの実在感を高めるために。被写体とカメラの距離を空ける。空間と世界を撮る。それから数拍置いて、カメラを近づける。

 

これは1話の頃からずっとそうなんですが、ようはカットが分断的でないんですよね。30分という枠の中で一つの話を成立させるにはある程度 "あってもいいけどなくても成立するカット" は削らなければいけないことが多いと思うんですが、でもこの作品はそういった  "あってもいいけどなくても成立する" 瞬間にとても強い意味性を見出している。この "間/時間" にこそ今の二人の関係性とか気持ちとか、そういった言葉では決して語り切れない部分へ寄るためのものがたくさん詰まっているのだと。だからこそある種のリアル感というものを本作は大切にしてるのでしょうし、そのためにカットを積み重ねていく。舞台や空間を描き、その地へ足が着いていると強く感じさせてくれるような描写を要所で織り込んでくれる。故にフィルム全体がシームレスな流れになるし、物語や空気感が分断されずどこまでも地続きに繋がっていくような気持ちにさせてくれるのだろうと思います。

もっと言えば、それは些細な芝居や視線を描くということにも繋がっているのでしょう。俯きがちな視線、相手を見据える視線。生活芝居に手癖、それらを網羅した繊細な手足の動き、そして表情。作画的な見地から見ればそれは各々が独立した表現としても "凄まじい" と感じられるほどの巧さを持っているわけですが、そういった数々の表現が同じベクトルを持って物語を構築しているのも本作が携える素晴らしさなんだろうと思います。例えばそれはひとりの感情だったり。内に秘める物を大っぴらにはしない虹夏の想いだったり。そんな二人が織りなすコミュニケーションの擦れ違いと支え合いであったりもそうです。逆説的に言えば、そういったものを描くための表現なんですよね。突飛な表現やコメディ全振りの描写もたくさん描かれますが、そういったものまで含めて "彼女たち" なんだと感じさせてくれる。本作のそういった部分に対して愛しさを感じてしまうのはもはや必然なんだろうと思います。だって私は表現を第一にアニメを観ているわけではなく、物語や感情に触れたくてアニメを観ているのだから。

余りにも日常的すぎる芝居が淡々として描かれるさり気なさと、凄み。これほどの芝居作画を描くにはどれほどの才能と努力が必要なんだろうと思わされる一方で、ありふれた日常の一幕が長い尺によって描かれるからこそ滲み出る情感を感じさせられてしまう。もちろんそれは自動販売機から醸し出されるエモーショナルな質感あってこそのものでもあるのでしょうが、でもそれだけでは決してないのでしょう。ひとりの奥に広がる夕景もそうです。この世界の存在と、そこで生きる彼女たちの営みが実在感の担保になっていく。そして実在感があるからこそ、そこで生まれる感情や関係性に説得力が出る。芝居や仕草というのはひとえに、そういったプロセスを繋げるための橋渡しとしても機能しているのだと思います。

ジュースを飲みほしてから一息つき、ゴミ箱に容器を捨て手に付いた露 (つゆ) を払う。シリアスな場面であり、繊細な話をしているからこそ、こういった芝居が描かれることでより彼女のフラットな感情と性格が前面に出るし、そこを感じ取らせて貰える。そして、それがひとりと虹夏の違いとしても表現される。"人それぞれ違う" という話をしていた流れの中で、その違いに言及する芝居。とても素敵ですよね。別に二人はこんなに違うんだぞ!と声高に叫ぶわけでもなく、まあそういうもんだよねと伝えてくれる。でもだからこそ、ああそうだよなって思えてしまう。それが凄く心地良いんです。

一方で「本当の夢」が何なのかを語ろうとしない虹夏の性格がすべて詰め込まれたようなラストの芝居も描かれる。前述したような彼女の人当たりの良さが垣間見える芝居ではありますが、自販機の光によって一瞬描かれる影中の表情が彼女の心奥に秘めた想いに重なっていくようで、このシーンを最初に観た時にはなんだか泣けてしまいそうになったのを今でもハッキリと覚えています。けれど、ひとりにはその繊細な感情の機微は伝わっていないのかも知れないなと思えたりもして、二人の手の振りの違い、芝居作画のニュアンスの変化からもそれは感じられました。でもそんな虹夏の姿を真っ直ぐ見つめるひとりの視線や、そうして佇み続ける彼女の姿を映し続けながらこのシーンを終える意味を考えれば、彼女に "何も伝わっていないわけではない" ということがやんわりと伝わってくるんですよね。それはある種、コミュニケーションの擦れ違いでもあるし、合致でもあるというか。相手を完璧に理解することなんて出来ないけれど、それでも分かり合えるものがあるのかも知れないという祈りのような感情と、人は誰かと触れ合っていくことでもいかようにも変化していくことが出来るのかも知れないという願い。それは "独りぼっち" であった彼女にとってとても希望になり得る瞬間であったと思うのです。

だからこそ彼女は言うのでしょう。「でもそれは、私だけじゃない」と。あの自販機前で過ごした何気ない時間。けれど彼女にとっては掛け替えのない時間でもあり、だからこそ "みんなと一緒に" という感情にも出会うことが出来たのだと思います。あの日、虹夏を見送った時とはまるで違う目尻を上げたひとりの表情と踏み出された一歩からは、そんな彼女の変化をしっかりと捉え切る演出的な強度とその意図をつよく感じ取ることが出来ました。

 

それこそ「結局成長ってなにか分からなかった」と語るひとりではありましたが、もしかすればいつの日か自身の半生を振り返った時、自販機前で虹夏と過ごした時間を指して「あの時に成長出来ていたのかも知れない」なんて思えるのかもなとか考えたりもして。自販機前のシーンをあれほどまで印象的に描いていたのも、もしかしたらそのための布石だったのかも知れません。それは今後私が「『ぼっち・ざ・ろっく!』5話といえば」と聞かれた際にきっとこのシーンを一番最初に思い返すであろうことと同じように。心に残り続ける場面や瞬間というものは往々にして実際より少しだけ煌びやかに見え、印象的に見えてしまうものなのだから。"特別な時間" とそれを彩る演出と、行き過ぎないリアル度合い。自販機の光に照らされる二人の表情を見返しては、そんな風な想いを反芻させられたことがとても嬉しく感じられました。