最近観たアニメの気になったこととか12

『明日ちゃんのセーラー服』7話。体育館の下窓から零れる光がフットライトの替わりとなって二人を照らしていたのが印象的でした。逢瀬。密会。秘密の共有。そもそもが各々の秘密を知り合う構成の話ではあっただけに、こういうカットが描かれたのは納得しかなかったというか。言葉にし難いんですが、思春期の少女たちとその関係性へ微かに光が当てられる感じ、舞台袖での細やかなやり取りの質感ってなんだかこう堪らないものがありますよね。それにこういうカットが積み重なることでより作中における "秘密" の度合いが高まりますし、ラストの音楽室でのシーンがより意味性を帯びるっていうのはやはりあるんだろうなと思います。

余談ですが、ここ十年規模で言えば個人的に一番印象に残っている同種のフットライトカットは『響け!ユーフォニアム』12話におけるワンシーンです。秘密の共有。「特別になりたい」という言葉尻の感情がこの場にこもっていく感じが凄くフェティッシュで、青春性を感じさせてくれました。なんとなくですが、上述した明日ちゃんのカットもこの作品の風合いを意識していたのかなとは感じたりしました。まあなんとなくです。

SPY×FAMILY』15話。シルヴィアの二面性をワンカットで描いていたのが素敵でした。カットを割っても成立するカットですが、敢えて表情変遷にかかる間を大切にし、緩やかな付けPANにより彼女がその内に抱える優しさを画面全体に滲ませていたのがとても美しかったです。カット初めに瞬きの芝居が描かれているのも良いなあと思わされるポイントで、彼女の人間らしさにおける担保足る芝居に成り得ていました。この直後に切り返しでお互いの主観的なアングルからそれぞれの寄りの表情を描いていたのも素敵でした。表情を覗くということ。視線を交わすということ。サングラスの奥に在る瞳の優しさにフォーカスを誘導していくコンテワークに、グッときてしまいました。

『ぼっち・ざ・ろっく!』3話。喜多ちゃんの後ろ髪引かれる感情、その発露に向けた契機をたった一つの芝居で描き切っていた素晴らしいカット。このカットに至るまでは要所でおどけた台詞回しをしていた彼女ですが、一変リアル調の芝居が差し込まれることで曖昧にしていた喜多ちゃんの感情が明確な輪郭を帯びていくのがハッキリと伝わってきました。本当は皆んなとバンドがしたい。その気持ちをスッとこらえるように縁を撫でる手つき。フォーカスが手に当たり切らないレイアウトも素晴らしく、ささやかではありますがそこには確かに彼女の願いが存在していることが分かります。シンクに溜まる感情、まで言語化してしまうのは余りに野暮なのだとは思いますが、情報量の多い画面に対して整然と意味性が据えられていることにも心を揺さぶられます。

 

もちろん声色の変化や台詞回し、前後のカットの脈絡あってのカットではありますが、たったワンカットでここまで登場人物の感情を捉えていたことにただただ感動させられた次第です。

『ぼっち・ざ・ろっく!』1話の演出について

ファーストシーンにおけるままならさ、孤独感、色褪せた世界の質感。そこへひとりの語りも合わさることで、このシーンから彼女の出自や当時の感情を知るのはかなり容易なことであったように思います。"独り" であることへの鬱屈とした想い。それを多角的な方面から演出するカメラワークやレンズ感。直接的に人の内面を画面に起こすことへの躊躇いは感じつつも、どのように描けばその内面をしっかりと伝えられるかに注力したフィルム。このアバンを前にしてはそう思わずにはいられないくらい、後藤ひとりという一人の少女の背景を非常に繊細に切り取ったシーンとなっていました。

例えば、スッとカメラの距離を離し、ロングショットで客観的に見た彼女の立ち位置を図ったり。マッチカットを使ったトランジションのシームレスさもそうですが、こういうカットの連続があるからこそ短い時間の中でもグッと受け手の感情を前のめりにしてくれるのだろうと思います。フッと差し込まれる地に足の着いた芝居も同じことです。リアル調な、等身大の芝居が描かれることでグッと現実感が増していく。その際に画面から醸し出される寂寥感はフィルムの質感を高めることにあまりにも大きな役割を担いつつ、本話の軸の一つにもなったいたのでしょう。

広角カットの多さも同様です。この世界の中でポツンと佇むひとりの姿を映すためのレンズ感。それぞれのシーンに対し不自然にならない形でこういったカットが差し込まれる (地続き感を失わない) のがまた堪らないなと思うのですが、こういったカットは彼女の心的立ち位置を映す鏡にもなってくれている気がして凄く良いなと思わされます。画として面白いけど、苦しいような。コメディチックに描かれることが多い本作なのでそういった感情ばかりを想起させられるわけでは決してありませんが、どこか "生きるって辛辣だ" ということを寡黙に伝えてくれている様な気がして、時たま胸を刺される感じになってしまいます。

例えばこういったロングショットの広角カットとかも、全部そうです。時たまナメで撮られるのが最初のアバンと重なってよりつらく感じてしまったりするのは考え過ぎなのかも知れませんが、シーン毎や動きの中での転換点にこういったカットが描かれるのがまた余計に効いてきます。それにこういう定点的なカットって現実感がかなり強いと思うんです。もしくは作品のリアル度合いを押し上げてくれていると言い換えてもいいのかも知れません。それがさらに長めの尺で映されたりすると尚更で、モノローグの多い作中にあってふと "独り" であることに立ち返させられてしまう瞬間がこういったカットにはあるのです。それがコメディタッチのカットから話を引き戻す際の切っ掛けとしても使われていたりするのは面白く、本作のオリジナリティだなと思ったりもするのですがそれはどちらかと言えば演出の副産物であって、やはりこういったカットを描く意味の中核には "彼女の孤独感" を描くことがあるんだろうなとは感じます。

コメディタッチからの現実感、という話で言えば最初にふれたリアル度合いの強い芝居の使い方においても同じことが言えるのではと思います。例えばこういうカット繋ぎとか。

こういう繋ぎと芝居とか。PANの速度や表情なんかはかなりコメディよりで話している内容、モノローグでの掛け合いなんかも右に同じなんですが、繋ぎのカットに現実味の強い芝居を地続き的に描き据えることでシームレスさを失わない (物語が分断されない) というのは本当に本作の強みだと思います。BGMもだいぶ愉快な感じだったり、アゲサゲがハッキリとした曲が使われていた印象なんですが、そういった極端な表現をなだらかに収束させていくような雰囲気も、こういったカットの繋ぎには感じることが出来ました。平たく言えば観ていて違和感がないので、物語や彼女たちの心情をより切に感じられるんですね、それが堪らなく嬉しいというか。

ライブハウスに着いてからも相変わらずな広角カットの連続で、ひとりの孤独感やよそ者感をより一層際立たせていました。ただそんな中でも変化はあって、少しずつひとりの世界の中に誰かが入り込んでくる様に広角カットの中に "他人" が描かれていくようになったというのが本話後半の肝でもあったのでしょう。もちろんシチュエーション (環境) 的に考えれば人を画角に入れざるを得ないというところはあるんですが、それ以上に彼女の世界に誰かが入り込んできたという風景を描くことで生じる意味合いは余りにも大きいものであったように思います。

 

そして、それはインサートされた過去の記憶とも比較できる描写であったはずです。広角カットによってひとりとそれ以外の人との距離感がより強調された形にはなってはいたものの、誰かが傍に居る、周囲がひとりを認識しているという事実は彼女にとって余りにも大きな "世界の変化" であったはずだからです。だからこそ序盤から描いてきた広角カットがより一層生きるというか。それは地道に積み重ねてきたカットが、想いが、彼女の人と関わろうとする努力が、少しずつカタチを成していく過程に他ならないのです。

その集大成とも呼べるカット。もはや魚眼レンズ越しの様なカットではありますが、ライブを終えた中、ひとりからすればこれほどまでに心的距離が出来ている状況下であってもその距離を自ら詰めていく彼女の姿からは、少しの笑いとささやかな感動を感じずにはいられませんでした。心を打つのはいつだって少年少女たちの変わろうとする一歩なんだなというか。もちろんここまで述べてきたような解釈は意図的でないのかも知れませんし、ただの拡大解釈に過ぎないのかも知れませんが、でもそれでも良いんですよね。そんな風に物語や世界の在り方、なにより彼女たち自身のことを大切にしているように "感じられる" ことこそが、アニメを観ていて何よりも楽しさを実感出来る瞬間なんですから。

それこそ、ここで描かれたひとりの変化は他人から見れば本当に些細なものなのかも知れませんが、当人からすれば世界の景色がまるで変ったように映るほどの変化だったのかも知れないなとか。そんなことがはっきりと伝わってくるラストシーンを観返してはただただ余韻に浸るというルーティーンを、今は繰り返しています。変化するライティングと表情の綻び。ああ、明日はもっと明るい一日を過ごせるかも知れないなという予感。と同時に最後には "ひとりらしい" 出来事が起こるのも微笑ましく素敵な瞬間だったのではないかなと思います。それこそここまで語ってきたような描写の数々が今後彼女の変化とともにどう変わっていくのかなと、そういった点も今から本当に楽しみで仕方ありませんし、どうか彼女の物語に幸せが満ちますようにと、そんな風に願わずにはいられない1話だったなと強く感じています。

22/7『曇り空の向こうは晴れている』MVについて


「死にたかった」という強烈なワードが印象に残りこびりつく、22/7の新曲『曇り空の向こうは晴れている 』 。しかし、その実情は "いつかはそこへ光が指す" ことを鮮明に記した生きるための道標 (みちしるべ) そのものでした。何処かで誰かが抱えているであろう生き辛さや、孤独。ふとした瞬間のアンニュイさ。そういった多くの感情を受け止めたうえで "それでも" と反語を紡ぎ、いつの日かそうした日々が過去の礎となりますようにと語る祈りのような歌詞と文脈。「死にたいこと 時々あるよね」と語られたことに対し "自分だけじゃないんだ" と思えた心強さまで含め、初めてこの楽曲を聴いた時に一人家でぼろぼろと泣いてしまった時の記憶は今も大切に心の奥へと閉まっています。


そんな楽曲の新作MVがつい先日発表されました。それも、どちらかと言えば歌詞に忠実な内容と言うより楽曲とMV内で描かれた物語が節々でシンクロするような瞬間がある程度のものであったように思います。けれど、大枠においてはどうでしょうか。ある日を境に突然友人が居なくなる悲しみ。それでも時間は刻一刻と進み、やるべきことだってある。そんな中で促される些細な変化と明日への一歩がいつか未来の "あなた" を象るのかも知れない。ようはそんな風にここに込められているテーマ性ってどこまでも前を向いていたように思うんです。人それぞれの尺度で存在する "辛さ" を受け止めたうえで、それでも "人は生きていく" ことを肯定してくれる曲であり、MV。それこそ、そういった "生" への執着や視線をとても力強く支えていたのが今回のアニメーションの存在だったんじゃないかっていうのは凄く感じたところでもありました。

 

そもそも私は今までもずっとそうだったんです。アニメーションだからこそ得られる躍動感や生命力に圧倒され、そこで動き息づいている登場人物たちの存在に背中を押されてきた。そうやって生きてきた半生だったからこそ、余計に今回の映像を観て胸に刺さるものがあったのかも知れません。

*1

それは冒頭の芝居でも同様でした。スッと手を伸ばし、写真立てを起こす芝居。動作を表すだけならその一文だけで事足りるのだと思いますが、それ以上のことを直感的に感じさせてもらえる含みがこの芝居にあったことが強く胸を打ちました。通り過ぎようとしたところで立ち止まったり、優しい手つきで写真立てを起こしたり。その際に彼女の表情をも想像させられてしまうのは、それこそ*2MVを観たあとだからこそそう思う部分もあるのかも知れませんが、この一連の流れと手つきの芝居だけで "生きている" という感覚を十二分に味合わせてもらえてしまう。それが翌々は感動に繋がっていくし、実在感を帯びるための切っ掛けにすらなっていたのだと思います。

サビ入り時のスローモーションのカット。楽曲の爽快さと解放感に合うような溌溂とした芝居ですが、よりそれを強調するためスローで描かれているのでしょう。足取りの一つ一つ、靡く髪の動き一つ一つに力強さがあって、より大きな生命力を感じられるシーンになっていました。楽曲面からみれば「死にたかった」という歌詞への反語であり、それに続く「死ななくてよかった 窓から射す陽の光にそう思った」という言葉を肯定するためのアニメーションであったようにも受け取れます。それこそ最初の芝居づけとは違う方向性の動き*3ではありますが、向かっているベクトルは同じだったはずです。アニメーションが実在感を与え、その実在感が楽曲のテーマ性をより強固なものにしているーー。そんな関係性が本当に素敵なんです。

屋上のわちゃわちゃ感。それぞれがそれぞれの役割を持って、自らの意思で動いているとより感じられる日常的な芝居設計にそれを過不足なく見せるレイアウト。ここでは私が特に気になったカットを上げていますが、こういうカットやシーンがこのMVには幾つもあり、その積み重ねが "生きている" という実感をより大きなものにしていたことはまず間違いないでしょう。

このカットに惹かれたのはアニメーション的な快楽が凄かったからというのもありますが、それ以上に動揺しているようでなにかとんでもないものを目撃している様な (それこそ人生の岐路に立っている様な) 質感が彼女の表情や、大きな靡きに強く現れているように感じられたからでした。迫真さ、とも言い換えられるのかも知れませんが、前述してきたような身体性のみではなく、こういった彼女たちの感情をも置き去りにしていかない映像の手つきがあるからこそ、言葉節の強い楽曲とも親和性が取れているように感じるのだと思います。

それはこういったカット一つとっても同じことなのでしょう。アンニュイさや感情のたまり場として描かれる横顔。もちろん、そこへ込められていたであろう彼女たちの想いのすべてを汲み取るまでは難しいように思いますが、それでも "何か" を感じ取ることは出来る。それは身体性をもって描かれる芝居から生命力や実在感といったとても曖昧なものを感じられることと、よく似ているのだと思います。些細な表現が登場人物そのものであったり、あらゆる感情の輪郭を形成していくし、その集大成が物語を象っていく。その節々に感動があるし心が動いてしまうからアニメはやめられないし、好きなんだなあと。そんなことも少し考えたりしました。それこそ "窓から射す陽の光を見て死ななくてよかった" と思うことがあるように。画面から溢れ出す彼女たちの輝きを見て背中を押してもらえたと思えることに、今は強い喜びを噛み締めています。

*1:サムネ参考画像:

*2:時系列的に考えても

*3:作画的に見ても