僕と作画と

アニメを観なくなってから大よそ3か月くらい。友人から借りた劇場版アイカツ!のBDを観たりはしましたが、それを除けば自主的にTVアニメ等をこんなにも長い間観なかったのはおそらく10年以上前だと思います。それは私がアニメを観始める前の時代です。深夜のお笑い番組が好きだった私はまだ深夜枠だった『モヤモヤさまぁ~ず』や『Qさま』を筆頭によくTVを観ていました。でもある日、適当にチャンネルを回していたらとあるアニメが丁度よく始まりました。その日に観たアニメは私の中で "何か" 特別な予感があって、言葉にならない不思議な感覚もあって、否応なくとても惹きつけられたのです。

その作品は『けいおん!』というタイトルでした。そして、私がアニメとその文化を好きになる切っ掛けとなった作品でもあります。当時の放送では最初に唯が目覚めてから学校に走っていくまでの過程がアバンとして描かれていたと思うのですが、あのシーンには目が釘付けになりました。何かが始まる。何故だか胸が躍る。特段アニメを好きでもなかった私でしたが、観終わったあとには必死でネットを検索したのを今でもハッキリと覚えています。偶然の出会いであったため作品名を失念していたんです。その後に作品名を知って、これまたなんとなく登録していたニコニコ動画でも検索をしたりしました。

確かこれは放送日の翌日くらいに上がっていた動画だったと思うんですが、正直これにも衝撃を受けました。MADという文化との出会いであり、カルチャーショック。多分ああいう時に使うんでしょうね。デカルチャーって。この後にGONGのマキバオーとか、とらドラのMADとかなんかそういう動画にたくさん出会って感銘を受けたのを今でも覚えています。その後にめちゃくちゃハマったアイマスとかもそうでした。自分は作画MADも好きなんですが、どちらかと言えば初期衝動に近いのはアニメMAD系の動画で、石浜さんのOPやURAさんのムービーに惹かれるのはそういったことが理由なのでは、とか今この文章を書きながら思いついたりしました(思いつきです)。

でね。話が一気に飛んじゃうんですが、結局私にとってのアニメの、そして作画の原点って京都アニメーションなんだなって思ったりするんです。これは優劣を付けるとか、何かと比べるとかそういうことじゃなくて、"私とアニメ" の歴史を振り返った時にもうどうしようもなく気づかされてしまうことでしかないんです。生活芝居というジャンルが好きになった理由も、繊細で寡黙な、それでいて雄弁に語り掛けるような映像に恋焦がれてしまった理由も、生き生きとした彼/彼女たちの視線の先に想いを馳せるようになってしまった理由も全部、京アニの作品が切っ掛けです。だってアニメを好きになった切っ掛けがそうなんですから。私個人レベルの世界においてはもうそれをひっくり返すことなんて決して出来ることじゃないんです。

 

でも、そういう基盤があるから。私という絶対的な基盤がちゃんとあるから。だからよりアニメーションの世界の広さに傾倒出来たし、のめり込めていけたのだとも思います。京アニにはない演出、作画表現、物語の数々。ああ、アニメって面白えなあって。たまんねえよって。そう思えたことがとても幸せだったんです。うん。幸せだった。そんな日々のお陰で今が在るし、だから今日も生きている。そう言いたくなるほどに、たくさんのアニメに助けられてきました。

田中宏紀さんの作画にドはまりしたり、スゲー!好きだなー!って思った作画は結構な確率で吉成曜さんだったり。別に私はパート当てが得意なわけじゃ全くないですし、むしろ分からないことの方が圧倒的に多いんですけど、でもそういうことを振り返っていくと、アニメーターの仕事って面白さでしかないよなとはやはり強く思うんですよね。

 

時をかける少女』のコメンタリーで青山浩行さんが「それぞれのアニメーターが一つの事象を各々がどうやって表現するかということに興味がある」的なニュアンスのことを仰っていたと思うんですが、どちらかと言えば私も本当にそれなんです。エフェクト一つとってもそうです。手足の動かし方、走り方、髪の靡き方、絵そのものの違いとか。その差に面白さが在るし、その振り幅の豊かさが物語の感情曲線と重なってとんでもない感動を生み出すことがある。表現としての作画そのものが物語に成り代わる瞬間だってある。それって余りにも凄いことだと思いませんか?

私は、そう思うんですよね。言葉がなくても、会話がなくても、時に表情がなくても、ことアニメにおいてはその大部分を作画で表現することだって出来る。まあ演出とか音楽(BGM)とかもそうですけどね。でもやっぱり私の経験則から言わせてもらえば、そこに作画というセクションが大きく関わっている割合はやっぱり物凄く大きいです。もちろん私は一視聴者であって、アニメ制作側の人間ではないので技術的な深掘りみたいなことにはほぼほぼ興味もないんですけど、でもそういった部分をも越えてアニメーターの個性さえ物語の一部になることがあるんですから、やっぱり本当に、どうしようもないくらい作画は面白いんです。

 

ただ最近というか、昨年秋頃くらいかな。少しずつ色々な理由が重なってアニメを観なくなることが多くなって、いよいよ今年に入ってからは全くと言っていい程アニメを観なくなってしまいました。アニメそのものも好きだけど、作画そのものも好きだけど、その周囲の音たちに好きだった気持ちが摩耗し、疲弊していくのは余りも早く簡単で、脆く、こんなにも自分の感情って簡単なものだったんだなってことを知りました。数か月アニメ観なかったくらいで大袈裟だわって思う方もいるかも知れません。でも十年以上ずっと続けてきたことが出来なくなった(何も感じられなくなった)んですから、私にとっては凄く大きな出来事でした。

でもここ数か月色々休んで、難しいことからもしがらみからも解放されて、心が自由になっていた時、ある日ふと自分がアニメを好きだった頃の気持ちを反芻する時間があり、物思いに耽ったりしていました。気づいたら作画MADを観ながら、泣いていました。そこはアニメじゃないんかいという突っ込みは当然入るでしょうが、でも私にとっては同じことでもあるんです。ああこのアニメのこのパート好きだったなとか、ここのパートはこの時の物語的にこうでああだったから良いんだよな、とか。だってそういったアニメを観ていた時の感動と感情が少しずつ還ってくる場所が作画MADでもあるんですから、良いんです。まあでも結局、『明日ちゃんのセーラー服』を観直して泣いたり。部分的にですが『MUNTO』を観て良いなってなったり。ああ、好きなんだなって。ちゃんと好きだったんだなって。そう強く想い返せたことが今の私にとっては余りにも大きな財産であり、救いそのものでした。

 

「僕らの人生に咲き誇り続ける、語り続けたくなる」そう謳った曲なんかもありましたが。一度ちゃんと好きになったものはもうどこまでもいっても人生の一部で、切っても切り離せないものなんだなと今さらになって実感させられました。それは見方によればもしかすれば呪いに近いのかも知れませんが、それでも。今のこの気持ちともう一度向き合っていきたいなとちゃんと今は思えているので、一周回れば呪いというものも得てして可愛げのあるものなのかも知れないなとさえ感じています。まあ晴れ晴れしてるってことですね。とてもスッキリしています。難しく考えることもやめて、斜に構えることもやめて、好きなことを好きと言い張れる自分をまた少しずつ取り戻していければ嬉しいです。私とアニメと、僕と作画と。過去の自分がその後に託したはずの言葉をもう一度だけ、いつの日かちゃんと手繰り寄せるために。頑張るます。


 

 

アニメと自動販売機、その風情について

『ぼっち・ざ・ろっく!』5話のワンシーンについて - Paradism

先日更新した記事でもふれた『ぼっち・ざ・ろっく!』5話における自動販売機前のシーン。少女の心奥底に隠された感情の一片 (ひとひら) を照らし、その輪郭を浮き彫りにする舞台装置として自販機という存在がここまで美しく機能するのかと驚かされたばかりですが、その一方で自販機と青春性ってなんでこんなにもマッチするんだろうな、ということについては結構考えさせられました。青白く光るライトに感じる淡さとか、それこそ思春期特有の内省と陰影の相性とか。その辺りをうまく利用していたのが本作なのはもはや言うまでもないんですが、でもそれって別に自販機に限ったことでは決してないですし、光と影の演出という点において言えば幾らでもやりようはあったはずなんです。でもやっぱり自販機なんだよなって感じてしまう。そういう感情が心の片隅にきちんとある。それこそコンビニの前でたむろする感じのシーンでもいいようなものですけど、どうしたって自販機にはそれ特有の風情があるという不思議な想いに囚われてしまうんです。

それこそ『ゆゆ式』3話のワンシーンとか。"アニメと自動販売機" という特異な括りにおいては他の追随を許さないほど語られ続けてきたシーンだと思いますが*1、ではなぜこのシーンがここまで魅力的に映るのかということを考えていくと、そこに数多ある理由のうちの一つとしてはやはり "自動販売機" という存在を挙げずにはいられないんですよね。もちろん芝居から溢れる情感の豊かさや、人物造形への一助、マジックタイムの儚さ、アングル固定による覗き見の質感、僅か数カットでそれらを内包し青春性を描き切ってしまう演出的強度など理由は他にもたくさんあります。ではなぜ、その場所が自動販売機の前であるとこうも風情をさらにも増して感じてしまうのかと言えば、それはひとえに、よりフラットさが生み出されるからなんだと思うのです。

 

例えばコンビニと違って自動販売機って対面購入ではないんですよね。ようは二人で飲み物を買いに来た場合、そこには第三者が介在しない。つまり無人の環境をつくることに違和感がなく、路地裏など人通りの少ないところに自販機を設置することによってより濃厚な二人の関係値とパーソナルな空間を描き切ることが出来る。そして大切なのはそれがコーヒーブレイクのための舞台であるということ。"一息つく" という行為がより登場人物たちの気を緩め、その心の戸に隙間をつくる契機にすらなっていくのだと思います。加えて "室内に限らず設置出来る" という強みは野外という表現自由度の高い環境下においてより顕著にその効力を発揮していたはずです。だからこそ、その時々の人物心情や物語の感情曲線に合わせて画面を構築しやすいというか。それは『ぼっち・ざ・ろっく!』においても『ゆゆ式』においても同様なんじゃないかなと感じます。空の色味とか空気感の色といった画面の質感に大きな影響を与えるものを物語に寄せながら解釈し直し、描くことが出来る素晴らしさ。実際はそうじゃないのかも知れないけど、決して写実的ではないのかも知れないけど。でもそういうことが出来るのがアニメだし、だからこそ表現できることや伝わることって膨大にあるのだと思います。あらゆる場所に遍在させることの出来る自販機*2に感傷性や青春性が伴われることが見受けられるのもそのためなのでしょう。

『先輩がうざい後輩の話』1話。野外ではありませんが自然光が多く差し込む場所に自販機を設置することで、こちらも空気感とそれに寄せる心情の重ね描きをしています。そして描かれる関係性の描写と心のキャッチボール。自販機前なんて長居する場所でもない、というのがまた良いのかも知れませんよね。言葉も投げ掛けるけど、全て言葉にするわけでもないというか。腰を据えて話し合いはしない。だから完璧なコミュニケーションが取れているわけでは決してないのだけど、でも今はそれで良いと思えてしまう。そんなひと時の安らぎを与えてくれるコーヒーブレイク。風情の塊のような描写ですよね。

GJ部』12話。以下同文。あとはやっぱり青白く淡い光が良いよなっていうのは改めて思います。登場人物へのスポットにもなりますし、滲む想いに寄るためのモチーフにもなる。誰の目にも留まらない場所での秘密の共有という風合いがあるのも良いですね。だからこそ最初に触れたようなフラットさというか、自然体な感じを垣間見ることが出来る。故に心が開いていく。そこに青春性という名のヒューマンドラマを見てしまうのは、もはや必然なのかも知れません。

 

他にもパッと思いつくのだと『AIR』や『とらドラ!』などでも自販機は登場していますが、思い返せばいずれも関係値の構築に関しては一役買っていたなと思ったりしました。あとは『秒速5センチメートル』とか。まああの作品はまた特異な感じがしますが。それこそアニメに登場する自動販売機が必ず何かしらの意味性を持っているのかと言えば、決してそうではないと思いますし、むしろ意味性を内包している方が希有なのかも知れませんけど。でも自分の中にある "アニメと自動販売機" の親和性と、そこに漂う風情がどんなものなのかっていうことはなんとなく今回の記事を書きながら見つけることが出来たのかなとは思っています。まあなんとなくですけどね。それこそ、まあなんとなく良いよねで括れるのも、こういったシーンの深みではあるのだと思います。風情って直感的なものでもあるので。そんな感じです。

*1:個人差はあります

*2:基本的には

『ぼっち・ざ・ろっく!』5話のワンシーンについて

「成長って正直なところよく分からない」。そんなひとりのモノローグと一連の流れから差し掛かるワンシーン。住宅街であろう道に煌めく看板と自動販売機の中を淡々と歩くぼっちの姿は、そんな変わり始めていく景色の中で心だけが追いついていかないその心境を鏡の如くそこへ映し出しているようでした。ひとりと自販機の関係を縦位置で映せば逆光となり、そういった意味性はより顕著に。単純に逆光とかコントラストの高い画面って情感が出て良いよねという話で済む場面でもあるのでしょうが、この作品がここまで通底し描いてきたことを踏まえれば、やはりそこには "感情的な何か" を感じずにはいられず、彼女の内面に対し視線を向けずにはいられなかったのです。

それは虹夏がやってきてからのカットでも同様でした。逆光で映すことに意味のあるカットの連続。もやっとしていたものにスポットが当てられていく感覚。今この瞬間だけは "そこ" について考えるべきなのだと、まるでフィルムが語り掛けてくるように彼女たちに焦点を絞る画面構成が本当に素敵でした。またこの辺りはアングルも素晴らしく、虹夏の掛け声とともにカメラをすぐ二人へは寄せず、一度ロングショットを挟むその手つきにはとてもグッとくるものがありました。一度距離を置いて、ここが二人にとって特別な場所になることを確信づけるように。あるいはこの場所に彼女たちが居ることの実在感を高めるために。被写体とカメラの距離を空ける。空間と世界を撮る。それから数拍置いて、カメラを近づける。

 

これは1話の頃からずっとそうなんですが、ようはカットが分断的でないんですよね。30分という枠の中で一つの話を成立させるにはある程度 "あってもいいけどなくても成立するカット" は削らなければいけないことが多いと思うんですが、でもこの作品はそういった  "あってもいいけどなくても成立する" 瞬間にとても強い意味性を見出している。この "間/時間" にこそ今の二人の関係性とか気持ちとか、そういった言葉では決して語り切れない部分へ寄るためのものがたくさん詰まっているのだと。だからこそある種のリアル感というものを本作は大切にしてるのでしょうし、そのためにカットを積み重ねていく。舞台や空間を描き、その地へ足が着いていると強く感じさせてくれるような描写を要所で織り込んでくれる。故にフィルム全体がシームレスな流れになるし、物語や空気感が分断されずどこまでも地続きに繋がっていくような気持ちにさせてくれるのだろうと思います。

もっと言えば、それは些細な芝居や視線を描くということにも繋がっているのでしょう。俯きがちな視線、相手を見据える視線。生活芝居に手癖、それらを網羅した繊細な手足の動き、そして表情。作画的な見地から見ればそれは各々が独立した表現としても "凄まじい" と感じられるほどの巧さを持っているわけですが、そういった数々の表現が同じベクトルを持って物語を構築しているのも本作が携える素晴らしさなんだろうと思います。例えばそれはひとりの感情だったり。内に秘める物を大っぴらにはしない虹夏の想いだったり。そんな二人が織りなすコミュニケーションの擦れ違いと支え合いであったりもそうです。逆説的に言えば、そういったものを描くための表現なんですよね。突飛な表現やコメディ全振りの描写もたくさん描かれますが、そういったものまで含めて "彼女たち" なんだと感じさせてくれる。本作のそういった部分に対して愛しさを感じてしまうのはもはや必然なんだろうと思います。だって私は表現を第一にアニメを観ているわけではなく、物語や感情に触れたくてアニメを観ているのだから。

余りにも日常的すぎる芝居が淡々として描かれるさり気なさと、凄み。これほどの芝居作画を描くにはどれほどの才能と努力が必要なんだろうと思わされる一方で、ありふれた日常の一幕が長い尺によって描かれるからこそ滲み出る情感を感じさせられてしまう。もちろんそれは自動販売機から醸し出されるエモーショナルな質感あってこそのものでもあるのでしょうが、でもそれだけでは決してないのでしょう。ひとりの奥に広がる夕景もそうです。この世界の存在と、そこで生きる彼女たちの営みが実在感の担保になっていく。そして実在感があるからこそ、そこで生まれる感情や関係性に説得力が出る。芝居や仕草というのはひとえに、そういったプロセスを繋げるための橋渡しとしても機能しているのだと思います。

ジュースを飲みほしてから一息つき、ゴミ箱に容器を捨て手に付いた露 (つゆ) を払う。シリアスな場面であり、繊細な話をしているからこそ、こういった芝居が描かれることでより彼女のフラットな感情と性格が前面に出るし、そこを感じ取らせて貰える。そして、それがひとりと虹夏の違いとしても表現される。"人それぞれ違う" という話をしていた流れの中で、その違いに言及する芝居。とても素敵ですよね。別に二人はこんなに違うんだぞ!と声高に叫ぶわけでもなく、まあそういうもんだよねと伝えてくれる。でもだからこそ、ああそうだよなって思えてしまう。それが凄く心地良いんです。

一方で「本当の夢」が何なのかを語ろうとしない虹夏の性格がすべて詰め込まれたようなラストの芝居も描かれる。前述したような彼女の人当たりの良さが垣間見える芝居ではありますが、自販機の光によって一瞬描かれる影中の表情が彼女の心奥に秘めた想いに重なっていくようで、このシーンを最初に観た時にはなんだか泣けてしまいそうになったのを今でもハッキリと覚えています。けれど、ひとりにはその繊細な感情の機微は伝わっていないのかも知れないなと思えたりもして、二人の手の振りの違い、芝居作画のニュアンスの変化からもそれは感じられました。でもそんな虹夏の姿を真っ直ぐ見つめるひとりの視線や、そうして佇み続ける彼女の姿を映し続けながらこのシーンを終える意味を考えれば、彼女に "何も伝わっていないわけではない" ということがやんわりと伝わってくるんですよね。それはある種、コミュニケーションの擦れ違いでもあるし、合致でもあるというか。相手を完璧に理解することなんて出来ないけれど、それでも分かり合えるものがあるのかも知れないという祈りのような感情と、人は誰かと触れ合っていくことでもいかようにも変化していくことが出来るのかも知れないという願い。それは "独りぼっち" であった彼女にとってとても希望になり得る瞬間であったと思うのです。

だからこそ彼女は言うのでしょう。「でもそれは、私だけじゃない」と。あの自販機前で過ごした何気ない時間。けれど彼女にとっては掛け替えのない時間でもあり、だからこそ "みんなと一緒に" という感情にも出会うことが出来たのだと思います。あの日、虹夏を見送った時とはまるで違う目尻を上げたひとりの表情と踏み出された一歩からは、そんな彼女の変化をしっかりと捉え切る演出的な強度とその意図をつよく感じ取ることが出来ました。

 

それこそ「結局成長ってなにか分からなかった」と語るひとりではありましたが、もしかすればいつの日か自身の半生を振り返った時、自販機前で虹夏と過ごした時間を指して「あの時に成長出来ていたのかも知れない」なんて思えるのかもなとか考えたりもして。自販機前のシーンをあれほどまで印象的に描いていたのも、もしかしたらそのための布石だったのかも知れません。それは今後私が「『ぼっち・ざ・ろっく!』5話といえば」と聞かれた際にきっとこのシーンを一番最初に思い返すであろうことと同じように。心に残り続ける場面や瞬間というものは往々にして実際より少しだけ煌びやかに見え、印象的に見えてしまうものなのだから。"特別な時間" とそれを彩る演出と、行き過ぎないリアル度合い。自販機の光に照らされる二人の表情を見返しては、そんな風な想いを反芻させられたことがとても嬉しく感じられました。