『城下町のダンデライオン』 4話の脚の表現について

衝撃でした。瞳以外のハイライトが回転しないなどといつから錯覚していた、とでも云わんばかりの見事なハイライト表現。特に茜の脚に至っては質感やフォルムも艶やかでいて肉づき感がよくとても素晴らしいものに描き上がっていた印象なんですが、まさかこういった表現で少女的な質感に奥深さを与えてくるとは思ってもいませんでした。それこそ無機質的なものの滑らかさや力強さを表現する際にハイライトをぐるんと動かすやり方は以前にもあったように記憶していますが、人の局部にあたるハイライトがここまで煽情的に動く例を私は他に知りませんでしたし、おそらくこれが初めての体験になったのではないかと思います。


茜の脚にスポットをあてた話なのだからこれぐらいやったってやり過ぎってことはないだろう、むしろこれぐらいやらなくちゃ茜の脚の質感は表現出来ない。そんな熱量さえ感じることの出来るワンカット。コンテ段階でこういう指示が出ていたのか、原画でのアドリブなのかという点に関しては分かりかねるところですが、とにかく素晴らしい表現だと思います。

あとはこのカットも素晴らしかったです。疲れ帰宅してからの、くつろぎたい気持ちと女子的な部分の葛藤が感じられてとても良かったですし、この脚の表現だけで彼女のイメージにまた一つ年頃の女の子らしさを付け加えていたと思います。チラッと足先を見せてくれるのも良いです。これがあるのとないのとでは大違いだと思います。女性の足先、特に裸足のそれは凄く特別でフェティッシュさが際立つパーツでもありますから、それをコンマ数秒でも画面に映してくれる辺りに強い拘りを感じられます。

足首の華奢な感じ。足裏の陰のつけ方。最高ですね。擦り寄る猫の気持ちが手に取るように分かります。なんとかは細部に宿るなんて言い回しもあるわけですけど、全体を通して観てもそれを象徴するかのような挿話になっていたのではないかと思います。面白い掛け合いや家族を通しての心温まる物語がとても魅力的な本作ではありますが、こういったところにもしっかりとリソースを割けることにこの作品の魅力は詰まっているように感じられますね。素晴らしい脚の表現と質感です。

『響け!ユーフォニアム』 13話の奥行き、その立体感

遂に最終話を迎えた『響け!ユーフォニアム』。その映像と音楽の重なりはまるで心に焼きつく程に情熱的で、この作品の全てをその舞台の上に置いてきたであろう素晴らしい幕引きであったように思えました。それは麗奈の涙や「今に全てを掛けよう」とする久美子の表情を見ても強く感じられる高揚感そのものであり、それはこの作品が青春の代名詞 としてよく語られることを今一度、力強く証明してくれました。


けれどこの最終話を観て一番心を震わされたのは、おそらく“そこ”ではなかったのだろうとも思うのです。それは、決してスポットライトをその中心で浴びていたとは言えない“彼女たち”の存在で、そうした物語の一つ一つに宿る輝きがあったからこそこんなにも感動することが出来たのではないかと。

例えば、麗奈のソロパートを前に物惣いに耽るよう目を細める香織先輩や、その奥で聴き入るように、けれど何処か寂しさそうな表情を浮かべた吉川優子たちはとても象徴的だったと思います。物語の群像性。幾つもの視点。黄前久美子という核たる主人公を置きながら、決して彼女にも引けを取らない少女たちの物語を紡いでいった『響け!ユーフォニアム』はだからこそ名作足り得たはずです。


「誰かが舞台に上がるということは、舞台に上がれない誰かが居るということ」という負の側面を描くことを恐れず、悲劇的な物語に屈していく少女の生き様を浮き彫りにすることで物語の多面性を獲得していった本作のスタンス。それも画面の前景と遠景に香織と優子を配置し、その間で麗奈にソロを吹かすなんて攻めたレイアウトを遣うのはまさにその象徴でしょう。被写界深度を浅く、一人ひとりにピントを合わせる。そんな、そっとカメラの焦点を少女たちに合わせていく優しさと厳しさは、きっとこの作品が一番大切にしていたものです。

そしてそれはこの作品が北宇治高校吹奏楽部の全ての部員を“個を携えた登場人物”として認識した物語であったことの証左に他ならないのでしょう。たとえカメラが誰かを捉えていたとしても、そのフレームの中で絡み合う視線は決して一つではないのだと語る映像とコンテワーク。画面の奥、或いは手前にキャラクターを配置すれば、画的なもの以上に物語に対しても奥行きが出る。だからピントを送れる。焦点をずらすことが出来る。誰かが歩んだ物語の裏、或いはそれより前に語られた物語の上で、誰かが泣き、誰かが憂い、誰かが笑顔を咲かしていたのだということをこのフィルムは鮮明として教えてくれる。

そして何を隠そう、そうして複雑に交差する感情が形成していく立体感を人は“青春”と呼び、そこで立像された風景にこそ私は美しさを感じてしまったのだと思います。それは夏紀先輩から突き出された拳にあらゆる感情が仮託されていたように。悔しさも。喜びも。心からの声援も。今度は自分も、なんていう願いの込められた未来への誓いも。その全てが堪え切れず滲み出したその一瞬にこそこの作品はほんの少しスポットライトを傾けながら、彼女たちの元へとそっと物語の軌道をずらしてくれるのです。

そして『響け!』と奏でられた彼女たちの音色は誰においても等しく語ることを許された願いそのものであり、この作品はそうした一つ一つの想いを響かせるための奥行きを広げながら、彼女たちが“この場所”にまで辿り着くのをずっと待っていてくれたのだと思います。


悔しいと思える心は美しい、夢に向かい懸命になれる姿は秀麗であると、まるで誰にでもなく語りかけてくれたかのような最終話。そんな有りふれたようで、彼女たちにしか響かせることの出来ない幕引きが本当に素敵でした。願わくばそうして今を駆け抜けた少年少女たちにさらなる夢の続きが訪れることを祈りつつ。今はただこの物語の節目と広大な青空へと抜けていった新たなる予感に想いを馳せるばかりです。本当におめでとう。そして、素敵な青春をありがとうございました。

『響け!ユーフォニアム』 12話の演出について、その反射する光の向こう側

密会の如く校舎裏でセッションを奏でる麗奈と久美子。その姿と表情に反射する陽の光はまるで、懸命に今を駆け抜ける彼女たちへ贈られた祝福そのもののようでした。それもおそらくは足元から光が反射していたに過ぎない映像ではある反面、その光はさながら舞台上の彼女たちをライトアップするかのように久美子を物語の主役足らしめていたように感じられました。

そして夏の陽射しが作りだす校舎の影の中、ひっそりと個人練習に励むその姿を照らす光は、巧く吹けないことに焦りを感じる少女の姿をただ「美しい」と形容しているかのようでした。例えるなら、「好きだから」「上手くなりたいから」と、ただそれだけの理由を糧としてがむしゃらに走り出せる真っ直ぐな視線にまるで恋でもしてしまったかのような映像美。先の見えないもどかしさや不安、焦りを“この瞬間”の情熱が勝ってしまったがための映像の秀麗さ。


その美しさに名前をつけるのだとすればまず間違いなく『青春』と名づけてしまうであろう程に、あの映像からは手を翳(かざ)したくなる程の眩しさが溢れていたと思います。むしろ、本来であれば校舎の陰で練習に没頭する彼女の不安を捉えればいい場面に敢えて光を反射させたのはだからだとも思うのです。つまりは、ネガティブな感情とポジティブな感情のコントラスト。その境界でもがく懸命な姿をこのフィルムは寡黙ながら美的に映し出したかったのだろうということ。そしてそれは他でもなく、この物語が彼女たち吹奏楽部の生徒たちに大きな期待を寄せていたことの証左でもあったはずです。

まるでひっそりと離れた場所から久美子たちを見守るよう配置されたカメラの距離感もそうでしょう。これらの距離感はこの物語が彼女たちへと注いでいた“期待の視線”としても十分に機能していたはずです。まるでドキュメンタリーのように陰ながら映すことの意味というか、触れることのできない距離でじっと撮る、というのはそういうことなのだろうと思います。

またそれは「久美子ちゃんは月に手を伸ばしたんです、それは素晴らしいことなんです」と緑輝が語ってみせたこととも同義であり、それはこの作品を手掛ける人たちの代弁足り得る言葉でもあったのだろうと私は考えています。「届かないように思えるものを必死に追うことはそれだけで素晴らしいんだよ」と、つまりはそういうことなのでしょう。


それこそ、ありとあらゆるモチーフと演出がこれまでも雄弁に語り掛けてきたように。この作品には青春を駆け抜けようとする子供たちの背を、映像という側面から力強く押してくれるという信頼がある。そしてそれは他でもなく、中川夏紀、吉川優子、中世古香織らの幕引きにこの作品が添えてくれた映像にも感じることの出来る“この物語の優しさ”でもあるのだと思います。敗北の後に残る悲壮感を悲壮感として描かない。それだけでは終わらせない、という本作のスタンス。例えるなら、それが“優しさ”であり、“期待”であるのだと。

泣き叫ぶ久美子の表情に月の光がかかるのも同じことでしょう。苦境や挫折といった青春と隣り合わせの苦しみを“青春特有の美しさ” と捉え、それを映像で表現する『響け!ユーフォニアム』独特の境地。また彼女の想いに同調するよう蒼く静かに燃え、その変化の兆しをしっかりと照らし出してくれた月の輝きは久美子に向け贈られた祝福そのものでもあったのだと思います。「悔しくて死にそう」と語り涙を流した少女の青春の輝き。そんな風に、人目も憚らず泣ける程に何かに情熱を傾けることが出来るというのは、とても素晴らしいことなんだよ、と。


そんな本挿話において描かれたも想いと期待を馳せつつ、来る最終話を今は心から楽しみに待ちたいと思います。