『ToHeart』1話 冒頭7分54秒の情景

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ヒロインであるあかりの回想から物語が始まり、オープニングを経て、モノローグから校舎内のカットへと切り替わるまでの流れが本当に圧巻で、久々に一話から肌がヒリつく感覚を覚えました。それこそ特別に派手なアクションや尖った演出があるわけでは決してないのですが、しっかりと彼女たちの “これまで” と “これから” に向けた話の輪郭を描いている辺りは特に素晴らしかったと思います。

 

若かりし頃の原風景を描き、それを夢として何年も前のことであると分かるように描く巧さというか。彼女の寝顔を近距離で描いてから部屋中をくまなく映す横長のパン、置いてある小物やぬいぐるみのアップショット、またそれらに囲まれて眠るあかりの俯瞰ショットを入れたりと、それがあの日の彼女であると伝えるまでの情感の持たせ方や、丁寧に一人の少女のパーソナルな部分を切り取っていくカメラワークがとても秀逸なんですよね。

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可愛らしい目元と映える髪の色。そして可愛らしい少女性の固まりのようなモチーフの数々など、ファーストシーンで描かれたあの小さな少女の残り香がそこには確かに存在していて。まただからこそ、このシーンには少女の “変わらなさ” というものが仄かながらに映し出されていたのでしょうし、そうして多くのものを感じ取ることが出来たのは、それだけのものを映すための尺的な寛容さと閑静さをこのフィルムがしっかりと残してくれていたからに他ならないのだと思います。

 

物語の始まりは静寂に包まれている程に美しいと言わんばかりの端正なフィルム。これから何が始まるんだろう。彼女はどういう子なんだろうという、未来への予感を携えるための余白をこの序盤で与えてくれる映像的な優しさ。それは勿論、情感を持たすための時間の掛け方であり、そのための演出であることはまず間違いないと思うんですけど、やっぱりそうした “感じ取る” ための側面って多分に含まれていたんじゃないかなと思うんです。

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特に物語の始まりに向けた高揚感などに対してはかなり意識的な映像になっていたように感じます。空に向け抜けていくカメラワークなんてその代名詞足るカットで、少女性を担保されたあかりが思春期に差し掛かりこれからどういった物語を綴っていくのか。それをあの空の向こうに視るまでがやっぱりこの冒頭一連シークエンスの醍醐味なのだとは思いますし、またそれは日々の変化を素敵なものと捉えるあかりの視線ともリンクする風景でもあったのではないかと思います。

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特に思い出の階段に差し掛かった辺りで同じレイアウトのカットを重ねたり、その場所の前でどこか嬉しそうなあかりの表情を捉えるということは、やはり彼女が抱く感情というものをここで少なからず描こうという想いがあるからですよね。そしてその想いの片鱗はその後の独白のシーンにおいても彼女の口から言語化されていくわけで、故にこの冒頭7分54秒のシーンの連なりは彼女が内に秘める情景を描き出すためだけに用意されていると言っても決して過言ではないと思うのです。

 

それこそ長い月日を経て変わったのであろう浩之(主人公)の変化などにはまず描写で触れる程度に留めておいて、何より先にあかりの心情を描き出すための映像や心の寄せ方に焦点を当てた見せ方には強い美しさすら感じられますし、そうした登場人物たちへの接し方を怠らないからこそ以降この物語は多くの場面で少女の視線や情景というものを蔑ろにしない作りになっていくのだと思います。その辺り、本当に丁寧と言うか、丹精込めて作られているフィルムって感じがして良いですよね。凄く好きだなぁと感じます。

 

また、キャラクターのフォルムの立体感なんかはこうした美少女ゲーム原作もののアニメとしては一種の完成形を見せられた気持ちにすらなってきますし、本当にうっとりしてしまうほどに流麗な造形だなと思います。特に目元の優しさや表情の柔らかさ、また頬から顎のラインや髪の繊細さは筆舌に尽くせない素晴らしさがありますね。WEBアニメスタイルの記事*1で「版権イラストが動いているよう」とも表現されていましたがまさにその感覚に近いなと思いました。

 

監督の高橋ナオヒトさんのデザインで言えば近い年に『誘惑 COUNT DOWN』や『同級生』などの作品がありますが、そのラインの造形がこうして千羽さんに受け継がれていったのかなと考えるとなかなか感慨深いものを感じてしまいます。瞳の雰囲気や髪の線に合わせた木目細かいハイライトとかは強く出てる感じがしますね。全体的な雰囲気も継承されてる感じがして良いなぁと思います。

To Heart DVD-BOX

To Heart DVD-BOX

 

*1:もっとアニメを観ようー第9回 結城信輝千羽由利子対談2

http://www.style.fm/as/04_watch/watch09_2.shtml

赤い傘、心の壁、牧穂乃果曰く 『キズナイーバー』7話

物語も佳境に差し掛かってきた『キズナイーバー』7話。語られたのは常にポーカーフェイスを決め込む牧穂乃果の過去と今の彼女に至る出生の秘密だったわけですが、その軌跡に描かれていたのはやはり辛く険しい物語そのものでした。


信じたい気持ちと信じた先に幻視してしまう絶望の未来。誰だって傷つきたくない、傷つけたくないと願う中で、それでも自分の心を守る判断を下した穂乃果の決断は決して咎められるものではないと思います。だって失うことは誰だって怖い。いっそのこと最初から無い方が良かったと思う程に、持っていたものがその手の中から消えていくことって凄く恐ろしい。だからこそ、相手を突き放してしまった彼女の気持ちも痛い程に伝わってくるんです。彼女自身、その後の心の距離感に苦痛を感じていなかったはずがないし、むしろ「瑠々と距離を置く」という決断は彼女が痛みを押し殺しながら刻んだ傷でもあったはずです。裏切ったとか、見捨てたとか。そんな単純なことじゃない。決してそんな風に割り切っていいことじゃないんですよ。

けれど仁子の言う通りそれは“穂乃果だけの気持ちであり、彼女自身にしか分からない【痛み】”でもあるわけで、その真意も伝えようとしなければ誰かに伝わることは決してない。それは瑠々がどういうつもりで穂乃果を押し倒したのかが分からないことと同じように、つまりは他人の感情を完全に掴むことなんて人間には出来ないということをそれは逆説的に証明してしまうんです。もちろん、本当に仲が良ければその輪郭くらいは掴めるのかも知れない。でも、その内情までは分からない。そしてそれはあのキズナシステムをもちいても実現には至っていないわけで、云わばそんな“心の壁”とさえ呼べる強靭なバリケードを人は抱えている。


自分の明かしたくない気持ち、想い、感情。そんな抽象的で曖昧なものを外に漏らさないために打ち付けられた心の壁。けれど、その壁は外に出したくない気持ちを漏らさずに済む替わりに、外へ押し出さなければ心が壊れてしまう感情の濁流をも押し留めその内側から人を蝕んでいく諸刃の剣。だからこそ、ようはバランスが大切だと思うんですが、穂乃果の場合はそれを上手く使いこなすことが出来なかった。心の中にあったもの全てを堰き止め何もかもを自らの内に閉じ込めてしまった。それが今の状況に繋がり、最悪の形を象ってしまったのだと思います。

故に彼女は素直になれない。自分自身に正直になれない。彼女自身は正直に生きているつもりでも、時折崩れるそのポーカーフェイスから滲むように感情が零れ出し、彼女の心が何処にあるのかを分からなくしてしまう。分からないから進めない。分かりたくないから進まない。前へ出そうとする足はその場を空転するばかりで、あの日から穂乃果は一歩たりともその場を離れることが出来ていない。抜け出すことも出来ず、突き進むことも出来ずにただ漠然と過ぎたであろう彼女の月日。もはや彼女にとってシャルル・ド・マッキングとは呪いの言葉でしかなくなっていたのでしょう。

もちろん二人の過去が“呪い”になってしまったことの原因の一端は瑠々にもあるのだと思います。彼女の言葉が穂乃果を苦しめ、その思考をネガティブなものに変えてしまったのはまず間違いない。けれど穂乃果自身も瑠々には“言えなかった”言葉が確かにあったわけで、その点を鑑みれば瑠々だって同じように進めなくなっていたのかも知れないんですよね。だって、二人揃ってのシャルル・ド・マッキング。あの漫画がもし大団円を迎えるのならそれは二人の手によるものでなくては成立しない。


だからこそ頷けるのは「最終話の評判が悪かった」という世間の一説。だって一人じゃ描けるわけがない。二人で築き上げてきた物語は決して一人の筆先では埋まらない。一筋縄じゃない。そんな簡単に突き放せるわけなかったんですよ。

でも逆に、だからこそ彼女は最終話を一人で描くことへと踏み切ることが出来たんじゃないかとも思うんです。だってあれは物語の続きじゃない。漫画という媒体の最終話。その体を成して描かれたあの作品は間違いなく“穂乃果と瑠々が辿り歩んだ物語の最終話”に他ならないからです。


瑠々が精一杯の気持ちを込めて紡いだ言葉。いつか穂乃果がもし、このページを読むことがあればその言葉があなたの心へと届き、その支えとなるように。「あなたの笑顔が、大好きだから」。一番伝えたかった言葉を、一番伝えたかった人へ向けて描いた最終回。それは進むことが出来なくなってしまった瑠々がそれでも前へと進もうとした証に他ならず、形容するならそれは決して“呪い”などではなく、むしろ“希望”とも呼ぶことの出来る言葉だったのではないかと思います。


そしてもし、穂乃果と瑠々の間に違いがあるのだとすればきっと“そこ”なのでしょう。相手の本心が分からない中で、それでも私には伝えたいものがあると追い縋ることが出来るのかどうか。傷つくかも知れない。嫌われるかも知れない。けれど伝えなければ何一つ前へは進めないという決意。心の壁を破り、たった一言伝えてみるだけでいい。「笑って」って。「大好きだよ」って。たったそれだけのことがこんなにも眩しく前を照らしてくれる。だから進んでいける。歩いて行ける。“伝える”ということがいつの日か“あなた自身”の道標になる。

悲しみは其処此処に積もる。それは時に激しく、時にしたした降り注ぐ雨のように心の底に溜まり辛かった記憶を映し出す鏡にもなる。だから傘は必要だ。こんな薄暗いどんよりとした天気の日にはいっそ真っ赤な傘を差して一人歩くのもいいかも知れない。もちろん気分は晴れない。けれど、これ以上悲しみに晒されずに済むから。これ以上自分を曝け出さずに済むから。ああ、なんて便利な傘。我が心の壁。


けれど、少しそこから顔を覗かせてみるとそこには友と呼べるか呼べないかまだ分からないような奴らの顔があって、実は雲間にもたくさんの星々が輝いて居ることを知って、降り注ぐ雨にも意外と嫌な気持ちを抱かないことを知ることができるわけです。それは“伝えてみなければ分からない”ことと少し似ていて、だからこそあの瞬間、彼女は自らの心の壁を少しだけ取り除き「キズナイーバーから始めませんか?」と、彼らに伝えることが出来たのだと思います。誰に諭されるわけでもなく、誰に従うわけでもない。傘を持つ手を自ら降ろすことの意味は見た目以上に大きい、勇気ある“あの日”から前へ進むための一歩に他ならなかったのだと思います。

そして、それは伝えることの大切さを語ると同時に“他人の感情を完全に掴むことは出来ない”という一つの事実に対する反語、“それでも人の感情はどこかで交わるのかも知れない”という希望をも雄弁に語り掛けてくれていたのでしょう。


なによりこれは感情と感情、痛みと痛みの交錯の物語。心の完全な通いを否定しておきながら、しかしそれらが象る感情の曲線は必ずどこかで交わるのだと力説する『キズナイーバー』。その交錯する点こそが“絆”であり“希望”に他ならないということをこの作品は伝えたかったのでしょうし、今回の話で言えば穂乃香と瑠々にとって「あなたの笑顔が好きだから」というそのたった一つの心の通いが“希望”であり、“交錯点”だったということを描きたかったのかも知れません。最後に、願わくば彼女の零した言葉がどうかあの人の元にも届いていますようにと祈りつつ。「私も」と伝えることの出来た彼女の成長と大きく踏み出された一歩に今はただただ心を寄せていたいなと思います。

青春と敗者のためのアンセム、そして少女は飛翔する ―― 『響け!ユーフォニアム』 番外編を観て

被写界深度を浅めに据え、まるで一人ひとりの物語を切り取るかのよう誰に向けても優しい視線を傾けてきた作品 『響け!ユーフォニアム』。まだ成長途上であった少年少女の表情をしっかりと収め、そのまなざしの先に”夢“を託す本作の姿勢は終始一貫して、この物語の最大の魅力として描き続けられていたように思います。


諦めないで邁進すること。力を合わせ大きな目標に立ち向かっていくこと。言葉にすれば少し安っぽく聞こえてしまいそうなそんなフレーズを、京都アニメーションの映像美と感情的なフィルムで劇的に描いていく本作のスタンス。少年少女の一時代を切り取り、それを“青春”と呼ぶことになんの躊躇いも厭わないその真っ直ぐさには、まるで“これが自身の過ごした青春時代である”と錯覚する程の熱量が込められていたようにも感じられ、その場面ごとに描かれる登場人物たちの“向き合い方”を前にしては強く心を打たれることも少なくはありませんでした。


そして何を隠そう、本作が真に優れていたのは“向き合うこと”を余儀なくされた少年少女たちの心模様を決してポジティブな観点からだけではなく、ネガティブな観点からも繊細に描き出してくれたからに他ならないのだと思います。勝者が居れば敗者が居る。そうした物語の力学上に厳然と横たわるリアリティを受け止めた上で尚、手が届かないと思われる目標にも“夢”を託していくということ。叶わない夢もある。儚く散る想いもある。けれどそこには燦然と輝く誰かのための夢が確かに存在したのだと語る作品のプロセス。それが本当に美しいんです。

特に葉月の場合は何か明確な夢を持って吹奏楽部に入部したわけではありませんでした。なんとなく入部して、なんとなくチューバを手に取って。時には「なんで私こんなことやってるんだろう」なんてアンニュイな気持ちになることもあったはずです。けれど彼女は恋をして変わりました。青春の代名詞とも呼べる感情の芽生え。火照るような未来への衝動。久美子や麗奈が音楽へ情熱を傾ける様に、それは彼女にとって紛うことなき “夢” と呼べる感情に他ならなかったのだと思います。だからこそ、そう簡単に割り切れる筈がないし、諦め切れるわけだってなかったのでしょう。それはどんな手段を遣ってでも自分の夢を叶えようと奔走した優子のように。「悔しい」と涙を流しながら夜道を駆け抜けた久美子のように。


全ては違うようでちゃんと繋がっていて、ようはみんな同じなんです。夢のベクトルが違うだけで、そこに向け込められた熱量は誰においても差なんてない。この物語が「登場する全ての人物を主役」と謳うのも同じことで、順風満帆な青春だけが特別なわけでは決してない。何かに対し一生懸命になること。何かに向け目一杯の想いを費やすこと。挫折したっていい。失敗したっていい。そうした経験の数だけきっと“あなた”たちは強くなれる。この番外編にはそんな願いのようなものが込められていたように思えてならないのです。

だからこそ、この物語は往々にして敗者に向け贈られる讃美歌にも成り得ることが出来たのだろうと思います。何かを成し遂げることを“青春”と呼ぶのではなく、何かを成し遂げようと懸命に駆け抜けたその横顔に“青春”の二文字は映し出されるのだと。勝つことだけが全てじゃない。成功することだけが正解じゃない。


それこそ、大きな意味では決して主人公になれなかった彼女たちがこんなにも輝いて見えるのはだからこそなのでしょう。二人が抱き合ったのだって決して慰め合いなんかじゃない。その小さな体で“夢”に手を伸ばし続けた一人の少女に対する、あれは労いに他ならないのです。そして、それはこの挿話そのものが彼女たちモナカに向け贈られた救済のためのボーナストラックであったように。この作品には“夢”のため全力で駆ける少年少女たちの背をしっかりと支えるための熱がたくさん込められているはずなんです。

新たな“夢”を見つけ駆け出した葉月の表情をあんなにもハツラツと捉えることが出来たのも、そんな彼女に寄せられた期待をその背中に映し出すことが出来たのも、ようはそうした本作の方向性の賜物に他ならないのでしょう。彼女たちが前に進むことを諦めないのなら、その姿をどこまでも美しく捉えることも厭わないとする、そんな物語と映像の関係性。


夢を叶えた者たちへはファンファーレを。夢なかばで敗れた者たちへはアンセムを。そして、さらなる飛翔のため全力で邁進する若者に向け奏でられたアンサンブル。それが『響け!ユーフォニアム』という作品の本質であり、この作品が一番伝えようとした「青春を謳歌することの尊さ」に他ならないのだと思います。


全力疾走する葉月に追い縋るようフォローし続けたカメラワークからは、それこそ青春の輝きを一瞬たりとも逃さないとする作品の意地を垣間見たようで観ていて熱く込み上げてくるものがありましたし、何より彼女の口から「また選び直せたとしても、私はまた吹奏楽部に入りたい」という言葉を聞けたことは感慨深く、本当に嬉しかったです。新たな一歩に反射する少女の成長の記録、『響け』と託された願いの片鱗は、この遠く離れた番外編の地でもしっかりと響き渡り、彼女たちの懸命な姿をしっかりと映し込んでくれました。出会いだけが人生じゃない。成し遂げることだけが青春じゃない。それでも、もしその全てを糧として前を見据えることが出来るなら。そんな言葉をもって、この記事を締め括らせて頂こうかなと思います。本当に素晴らしい番外編でした。



追伸。「格好良い」 からと入部した吹奏楽。恋をして変わったあなたは本当に格好良くなったと思います。