『22/7 「あの日の彼女たち」』の演出について

光、音、レイアウト、芝居、台詞、時間。その枝葉まで如何なくコントロールされた繊細なアニメーションに衝撃を受けた『あの日の彼女たち』。二分にも満たない短編で描かれた本作は少女たちの感情を寡黙に語らない一方で、映像の側面から各々の内面・関係性を描き、そっと彼女たちに寄り添っていた印象を受けました。

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中でも光による画面コントロールは印象的に使われていたことが多く、特に滝川みう編から斎藤二コル編*1へと繋ぎ描かれたアンサーフィルムとも取れる相互の映像は非常に雄弁でした。レイアウトと影づけによる境界、撮影によってより誇張されるビジュアルの変化は何を語らずとも少女たちの輝きをそこに映し出しているようで唸らされます。二コルから見たみうの輝きと、そんな輝きを追い掛けんとする二コルが持つ別の輝き。世界が少女たちを祝福するかのような光は、まるでこの作品における彼女たちの可能性を描き出していたようにも感じられますし、その反面で影へ落とし込まれるその姿はそれだけで “あの日の彼女たちが輝きの只中に居たわけではない” ことをも明瞭に指し示しているようでした。

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しかし、そうしたある意味大胆とも取れる映像の変化とは裏腹にそっと独自のパーソナリティや関係性を映し出している場面でも演出的な明暗によるコントロールは光っていました。河野都編ではあかねとの関係・空気感を色濃くそこに映し出していたのが面白可笑しく印象に残った上に、立川絢香佐藤麗華の両編ではその内面に差し掛かるようなイメージで明暗のコントロールが明確にされています。言葉を多くは紡がない彼女たちの感情や立場をどこか代弁してくれるかのような光と影の質感。それが本作の凄味を一つ高い場所へ押し上げていることは間違いないはずです。

 

加えて、立川絢香編に至っては扉を開けるモチーフカットで始まり、扉が閉まるカットで終わることで彼女から少し顔を覗かせた内面とミステリアスな雰囲気がより強く表現されていたのが面白いです。佐藤麗華編では時間を大きく跨ぐカッティングと鏡面の演出。鏡面は他のエピソードでもよく使われていますが、少女たちのパーソナリティにカメラを向けるこの作品らしい素敵なモチーフとして機能していたと思います。(台詞や音を含めた) カット割りのタイミング、心の隙間や関係性に踏み込む長尺のカット*2、限りなく劇伴を排し、彼女たちが過ごす時間を出来るだけ “ありのまま” 切り取る映像構成がより、アイドルとしてではない “彼女たち自身” への興味と空間への没入感を深めてくれていました。

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特に『day07 戸田ジュン』編は、前述したような一人の少女を撮ろうとし続けた本作の流れを真っ向から汲んだエピソードになっていたと思います。大きい変化や感情の上げ下げが起きない物語であり、平凡な日常の一幕を描いた生活アニメーション。けれど、何も起こらないからこそ少女たちから滲む関係性や生活感、フラットな表情が見えてくるというのはやはりあるのでしょう。光による質感も過剰に陽が差し込む訳でもなければ影で覆われることもありません。あくまでこのエピソードで描こうとしているのは日常の一幕。*3けれど絢香の主観的なカットでは少しだけその塩梅が変わっていくのが、本作においての “内面をも描く” ということなのだと思います。

 

蝉時雨降り注ぐ中、熱い鍋を前に淡々と仕立てられていく料理。「言われたもの買ってきたよ」の言葉。そして映る滴る汗とその首筋を照らす陽光。それが “誰のための料理” であったのかということが映像として語られていくのに加え、その延長上に首筋にアイスを当てるという芝居*4(ある種の内面的な会話) が入るのがとても良いのです。

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環境音とバックショットで長回しをする見せ方。前述したように登場人物たちのありのままの時間を捉え映すという演出的テーマでは一貫しています。バックショットに宿る見守る性質を存分に生かしながら二人の会話を映していくことに情感があり、生っぽさがあり、だからこそ二人だけの空間がそこに確立しているように感じられるのが本当に堪りません。カメラの切り返しとそれぞれの反応と思考を考慮した間の置き方も素晴らしく、こういったシーンやカットの一つ一つから本シリーズが主軸にしているであろう “彼女たちを一人一人の少女として描く” ということが強く伝わってきます。たった一分三十秒の映像であるにも関わらず、ここまで本作から彼女たちというものを感じられるのはそういった繊細な映像の連なりが芯となりフィルムに強度を与えているからに他なりません。

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そういった映像へのアプローチの仕方に関しては「あの日の彼女たち」シリーズの監督であり、多くのエピソードの演出を担当されている*5若林信さんが手掛けられた『エロマンガ先生』8話にも同様のことが言えると思います。特に山田エルフに纏わる物語に話が移ろぐ瞬間はその傾向が顕著でした。中でも印象的だったのは二つ。一つはエルフが主人公であるマサムネを遠くから呼び止めるシーンです。劇伴を排した見せ方もですが余韻の持たせ方、カッティング、間の置き方によってとても感傷的に映ります。芝居・台詞回しも含めた話ではありますが、最後の揺り戻しの間尺などに言葉では言い表すことの出来ないものが多く詰め込まれているように感じられるのは、「あの日の彼女たち」にも散見された人物象に付加された奥行きそのものです。

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二つ目はマサムネがムラマサとの関係について相談した後のシーンです。「エルフ先生に惚れちゃった?」とエルフがそれとなく、冗談めかしながら言葉を紡ぐとカメラはエルフの表情や心情を捉えるようにその位置を変化させていきます。自身の気持ちについてこの挿話では決して多くを語らないエルフですが、この時、カメラだけは彼女を相談できる作家仲間としてではなく、やはり “一人の少女” として映し出そうとしていたのです。劇伴が消え、ぐっと二人の関係性・少女の内面に寄り添ったフィルムになるのも同様。双方の表情を映す切り返しのカメラワークと、相手の言葉にどういった反応をするのかという一人の少女の揺らぎを捉える映像がとてもエモーショナルで、これもまた前述してきた「あの日の彼女たち」の特性ととても近いものがあるように感じます。

 

物語的には『エロマンガ先生』の方に積み重ねがある分、より心情に寄って描かれているように見えますが、おそらく “彼女たち” への寄り添い方としてはそこまで大きな違いはないのでしょう。関係性と時間をありのまま切り取り、一人一人の内側を言葉ではなく映像から掘り下げていく。生っぽい会話で、その中に含まれる空気感を画面に抽出していく。そんな “彼女たち” について静かに、けれど確実に語り掛けてくれるフィルム・演出に若林信という演出家の魅力は在るのかも知れません。

 

新しい仲間も増え、これからの展開が楽しみな『22/7』。続けて描かれるであろう「あの日の彼女たち」シリーズにも大きな期待を寄せつつ、楽しみに待ちたいと思います。

*1:小林麻衣子さんコンテ演出回

*2:関係性も描くという意味では丸山あかね編(山崎雄太さんコンテ演出回)でもカメラの距離感、二人の会話、空気感など作品の色が出たエピソードになっていました

*3:その一幕を過剰ではない光のコントロールで引き立てているのが本当に素晴らしい

*4:感謝とも労いとも取れる芝居

*5:若林信さんのTwitterより https://twitter.com/huusun/status/1048947325966540800

劇場版『若おかみは小学生!』の芝居・身体性について

表情変化や歩き芝居に始まり、抱き寄せる芝居、ものを運ぶ芝居、屈む芝居、掃除をする芝居など、おおよそ生活の中で見られるであろうアニメーションを徹底して描き出した今作。日々人が営む中で起こす動きを描くというのは非常に難しいことですが、それを終始高いレベルでここまで快活に描いていたことにとても驚かされました。加えて、そういった数多くの芝居が物語に寄与していたものは計り知れず、鑑賞後はこの作品が劇場アニメとしてのスケールでTV版とは別に作られた意味を思い知らされたようでした。*1

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なぜなら、両親を失くし、祖母に引き取られた先で若女将として経験を積んでいく主人公のおっこがその過程で見せた懸命さも、失敗も、時に見せる子供らしい表情もその全てがとても生き生きと表現されていたからです。着物のシルエットや姿勢、いわゆるフォルムとその動かし方や、それらを内包した生活アニメーションの巧さは前述した通り本当に素晴らしかったのですが、そこに描かれていたのは着物ならではの緻密さや人間的な芝居の表現だけでは決してありませんでした。おっこのハツラツとした性格、強さ、感情の豊かさ、そして成長。そういった目だけでは観察することの出来ないおっこが持つ人間味を描いていたこともまた素晴らしく、だからこそこの作品においてはそういった芝居の積み重ねが一つの物語になっていたと強く感じられるのです。

 

コミカルな芝居も、夢で両親に甘える芝居も、ハキハキと働く芝居も。その全てがおっこという一人の少女を描き、象っていくということ。そしてそれが緻密に、丁寧に表現されていくことで実在感が生まれ、こうして鑑賞を終えた今も尚 “春の屋で駆け回るおっこや取り巻く人々の姿を想像させてくれる” ことに本作で描かれたアニメーションの強さはあるのだと思います。美術や構図・レイアウトの素晴らしさに緻密な芝居が乗り、感情や人物像が込められていく。大袈裟な言い方をすれば、まるでそれは彼女たちがそこに生きた証を記すようで、物語の節々、カットの一つ一つに感傷や喜びを感じずにはいられませんでした。

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また、彼女を取り巻く人々の芝居として素晴らしかったのはおっこにだけ見える幽霊たちの存在とその描き方でした。ウリ坊、美陽、鈴鬼と三人の人ならざる者が本作では登場しますが、特にウリ坊と美陽における芝居は彼女たちが幽霊であることを忘れてしまう程に生命力に溢れていました。ふわっと漂う芝居やものの中を通過していく表現は時におっこたちとは違う存在であることを実感させますが、駆け回ったりおっこの手伝いをしたり、一緒に笑ったり泣いたりする彼女たちは打って変わり、おっことなんら変わりない少年少女の快活さをもって描かれていたように思います。それは彼女・彼らにとっての身体性の獲得であり、本作が二人を人間として (或いはおっこの良き友人として) 描こうとしたことの証左に他ならないはずです。

 

もちろん、身体性という意味ではおっこについても同様ではありますが、元々が既に命を持つ者ではなかった分、よりそういった芝居作画からは二人の存在というものを強く感じ取れたように思います。特にその身体性が強く描かれていたラストシーンの神楽はとても感動的でした。舞い踊るおっこと真月の横で一緒になって踊るウリ坊、美陽の姿はもはやおっこたちとなんら変わらず、垣根などない “生者と変わりのない存在” として描かれていたとすら感じられたからです。四人の動きに (人間と幽霊としての) 差をつけず、一人一人の芝居を力強く描いたこと。まただからこそ「まるでウリ坊と美陽が実体を持ったかのようだ」と思えたこと。それはきっとおっこたちが過ごした時間とその中で培った “実り (関係性や成長)” を本作が大切に描こうとしていたことと、きっと密接に繋がっているはずです。

 

そういった物語の流れ、登場人物たちの変化や成長を今回のような芝居・作画をもって多く描いてくれたことが本当に素晴らしく、感動しました。生活を描くこと、感情を描くこと、性格や身体性を描くこと。そういった描写の一つ一つが連綿と繋がることで彼女たちが “そこに居る” と感じられる。その感動と喜びはとても大きく、あらゆる面を作画面からも力強くアプローチした本作*2はきっとこれからも胸の奥に焼きつき、離れないのだろうと思います。そう確信出来るほどに素晴らしい映画でしたし、心からこの映画に出会えてよかったと今は感じられています。TV版はまだ最終回を迎えていませんが、一先ずこの作品に関わられた方々には心から感謝を。本当にありがとうございました。おそらくもう何度かは劇場へ足を運ぶことになりそうです。*3*4

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*1:それはTV版と劇場版のどちらが良いか、などといった話では決してなく

*2:もちろん、作画面だけではなく、音楽、美術、撮影、それらを統括する演出などそのどれもが素晴らしかったのは前提として注釈しておきます

*3:記事中で使われている参考資料(GIF)は全てTVアニメ『若おかみは小学生!』ED内にて使われたもの

*4:サムネ参考画像:

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『ヤマノススメ サードシーズン』10話の演出について

7話から描かれ続けてきたあおいとひなたの擦れ違い。おそらくは、あおいの成長、交友関係の広がりに対して “遠ざかっていくような感覚” をひなたが覚えてしまったことが原因の一つになっていたのでしょう。どこへ行くにしても常に傍にいた存在が少しずつ “自分の居ない場所” へ足を向けることに抱いてしまう寂しさや戸惑い。互いを見続けてきた二人の関係だからこそ変化というものにはとても敏感で、どちらかが変わっていく分だけその間には少しだけ小さな溝が生まれてしまったのだと思います。

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そして、本話はそんな溝とそのせいで出来てしまった心的距離をとても繊細に切り取っていました。特に本人さえまだ言葉にすることが出来ていなかったひなたの抱く感情を寡黙に、且つ雄弁に映し出してくれていたのは本当に素晴らしく、冒頭から終盤にかけ彼女の想いを一つ一つ拾い上げていくよう紡がれたフィルムの運びは非常に感傷的でした。

 

冒頭で描かれた視線を意識するようなカットもおそらくはその延長で、相手を見つめる、見つめていると分かるカットの存在がその先に向けられる感情の輪郭をシームレスに描いていたはずです。楽し気な会話から始まったシーンでしたが、これまでに描かれた擦れ違いもあり、相手を見つめるという芝居にすらとてもドキッとさせられてしまいます。空気を裂くよう差し込まれるひなたの驚いた表情は特に印象的で、見つめるという行為に含まれる感情の大きさを改めて思い知らされるようでした。

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続くシーンではエモーショナルなカット、レイアウトが続きます。被写体を端に寄せるカットはこの辺りから多くなっていきますが、どれも情感が厚く、なにかを訴えかけるような絵になっています。二つ目のカットでは、一緒に帰っているにも関わらずあおいだけを切り取るフレームで描かれていたのが大胆であり、切ないです。「ひなたが居ないのは不安」と感じるあおいと、それとはまた別のところに不安や寂しさを感じているひなたとの違いをまさしく分け隔てているようにも見えます。あおいの心に “ひなたの想い” 在らず、といった印象も受けるカットで、この流れは観ていて非常に辛かったです。

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あおいが立ち去ってからのカッティングも非常に巧いです。「じゃあね」と語り掛けるひなたの声は虚空に消え、ポツンと佇む姿、見つめる視線に寄ることでカメラはあおいとは別の孤独感に苛まれるひなたをそのフレームに収めていきます。画面端に被写体を寄せることで生まれる空間はまるで感情の溜まり場のようで、美しく焼ける夕景と見つめ続ける視線の残り香が溢れるほどの感傷をそこに描き出していました。

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立て続けに描かれる同様のレイアウト。エモーショナルな劇伴に一人で散策するひなたのゆったりとした体感時間をも感じさせてくれるカットの運びがマッチしていて、素晴らしいシーンになっていました。「あおいのやつ、本当に私が居なくて大丈夫かな」と語られたモノローグももはや裏腹にしか聞こえず、ひなた自身はまだ気づいていないであろう、その心の内を透かすような一連のシーンには堪え切れず少し、泣いてしまいました。

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特にこのロングショットでの長回し芝居が凄く良く、普段は忙しないひなたとは正反対の芝居、動かし方がどこか “いつもと違う” 雰囲気を出していました。心に小さな穴が空いているような。そんな風に思える芝居、見せ方であることがこのシーンにおいてはとても大切であったはずです。もちろん、このカットを担当されたアニメーターの方の膨らませ方が素晴らしかったのだろうとは感じますが、ここをこの距離感で、fixで撮ると判断したことは演出の領分が大きいように思います。今回の話を通しては総じて言えることですが、演出と芝居の描きたいこと、解釈、膨らませ方がそれぞれのシーン・カットを本当に素晴らしいものに仕立ててくれていたと思います。

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この辺りもそうでした。今話においてはあおいとの唯一の接点であったスマホをひなたが見つめる、というカットが散見されましたが、寄りでと言うよりは少し距離を置いた位置でひなたを映し、ここでも空いた空間に彼女の感情を少しずつ流し込んでいるような印象を受けました。芝居における間や表情でも良く情感を出していたカットですが、ひなたがスマホの向こうに向ける視線、その先で生まれる感情とそれを滲ませるための画面構成という意味では、やはりレイアウトの良さが感傷さをより引き立てていました。ナメで撮られていたのも、これらのカットが彼女の心を覗き込む立ち位置で描かれていたこととおそらくは一致しているのでしょう。視線誘導的な意味でも、物陰の役割としても前景を置くレイアウトが非常に上手く決まっていたと思います。

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そういった意味ではこのカットも非常に印象的でした。ナメ、PAN、ピン送りからひなたの表情、そして視線の先を描いたカット。かえでさんの「将来の選択」「後悔しないために」「続けるために」という言葉から少し目の前が開けたような、その心内に少し潜り込むような質感を持っていたのがひなたの現状や今のあおいとの関係性にシンクロしていて凄く良いな、素敵だなと思えました。(ひなたにとって) 言葉数少ない寡黙なシーンではありますが、前述してきたひなたの感情を描いたものとして本当に雄弁なカットです。

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ひなたの表情とそれを捉えるレイアウト。かえでとゆうかを見つめ、少し目線を下げて、その先に自分とあおいを重ねる。実際的な目の前の風景ではなく、ひなたが何を感じ、何を想い、その先に何を見ているのかということを描いていく。そしてそれを描くため画面に余白を作る。感情が少しずつ滲んでいくように。少しずつ伝わっていくように。ひなたとあおいの未来、その行方に少しでも希望が生まれるように。

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そしてそんなひなたの想いが通じた “ように” 繋げて描かれるあおいの芝居。直接的になにかを感じ取ったということを描いていた訳ではないはずですが、前述のシーンからここへ直接繋いでいくことで “そう見える” ようにしていたのはおそらく意図的だったのでしょう。柔らかい指先の芝居と、そこへ触れる淡い光。擦れ違う中に未だ残る絆の強さを感じられる素敵なカッティングです。

 

またここだけではなく本編の多くで言えることですが、入射光、透過光など撮影の良さが明確な意図をもってフィルムに多大な質感を与えていたのは今回の話の大きな魅力だと感じました。色指定や美術で織りなす画面の色味をさらに感傷的なものにしていく撮影の素晴らしさは溜息が出る程です。淡く照らしたり、陰影とのコントラストをより明確にしたり。時に優しく、時に厳しく彼女たちを見守る世界そのもののような印象も受けますし、登場人物たちの感情がそのまま映像に同期しているようにも感じられます。

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電車内のシーンは特に撮影による演出が顕著でした。それぞれの立ち位置、未来への展望、感情との同期。それこそ世界からの祝福、なんて言うと大袈裟な言い回しに聞こえてしまいそうですが、満面の笑みを見せるあおいを照らす光・映像美はまさにそう喩えるに相応しいものでした。

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一方で、より時間帯の深い黄昏のような風景を演出することでひなたの心情がそこに浮き彫りになっていくのは対比的でとても良いなと思いました。芝居、表情、余白を作るレイアウト、被写体との距離感、そして色味・撮影など画面構成する全ての要素が噛み合い、素敵な映像を創り上げています。狭い空間に4人で居たあおいたちとは違い、広い空間にポツンと佇むひなた。感情的で、感傷的で、この絵を見ているだけで心苦しくなってきてしまう良さで溢れています。

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光と陰の分断で明確に現状を分ける構図、レイアウト。撮影によるコントラスト。そしてここまで描かれてきた視線とその先に描かれる複雑な感情。どこまでもひなたに寄り添い、ひなたの想いを一つ一つ汲み取ろうとするカットの運びが観ている私たちを居た堪れなくさせます。ですが、感情の動線を追う、というのはまさにこういうことなのだとも思うのです。ひなたの一日を追い掛けるようなフィルムとしても成立していた今回の話ですが、たった一日であっても色々なものを見て、感じ、考える。その繰り返しを捉えていくことで描くことの出来る少女たちの繊細な感情というものは、確かにあるはずなのですから。

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最後まで徹底して描かれるひなたの視線と余白。今感じている “この気持ち” の正体。その感情について考え続ける少女を映し続けることにおそらく本話の主題の一つはあったのだと思いますし、『擦れ違いの物語』がサードシーズンに入り描かれた意味もきっと同じなのでしょう。共に歩み続ける中、成長した少女たちが今一度互いへの想いを確かめ合うこと。その過程を描いた中でも今回の話は特に繊細で、どこまでも優しさに溢れ、常に情感を感じ取ることの出来る距離感で描かれていたと思います。

 

コーヒーに混ざるミルクや、水滴の落ちるイメージカットなど話に沿ったモチーフが要所で描かれていましたが、そういったカットもシームレスに流れの中で構成されていたのがまた素晴らしかったです。願わくば、早くひなたとあおいにはまた仲睦まじい関係に戻って欲しいですが、今話の映像がそうしてくれたように、私も彼女たち自身が自分で答えを出すまではしっかりとその姿を見守っていてあげたいなと思います。芝居・作画と演出の余りに素敵なマッチング、本当に素晴らしい挿話をありがとうございました。

ヤマノススメ サードシーズン 第3巻 [Blu-ray]

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