『リトルウィッチアカデミア』7話のカメラワークについて

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Bパート終盤。アッコの退学を巡る一悶着を描いたシーンですが、この辺りのカメラワークに強い物語性が内包してあったのが凄く良かったです。基本、最初は退学の可否を決める校長先生とアッコの間に想定線が置かれるていたと思うのですが、会話が進むにつれ会話の主体になる二人は順次入れ替わるので、(こういう言い方が正しいのかは分かりませんが)このシーンには想定線が複数存在します。特にアーシュラ先生とフィネラン先生のやり取りへの移行は顕著で、会話の主体者が他の二人に移ることを契機に、今度は彼女たち二人(またはその想定線)を基準にカメラは動き出していきます。

 

怒るアーシュラ先生の歩みをフォローしていくことでカメラはぐんぐん右へ。カツカツと音を立てる足元、肩を揺らし息巻く芝居、正面からのアップショットと実に感情的な映像でカットは繋がっていきますが、この時点ではもうアッコや校長先生は会話の蚊帳の外に置かれています。つまりあの時点で、話と映像の軸はアーシュラ先生の感情にほぼ完全に寄り添ったということなのでしょう。前回の話でも彼女の学生時代が少し映し出されていましたが、ああしたバックボーンがあったのも失敗を断罪するような物言いをアーシュラ先生が許せなかった一つの理由なのだと思います。だからこそ、失敗したっていい、間違ったっていい、「あの子がどれだけ成長しているかで見てあげるべきなんだ」と語る彼女の姿は得も言われぬ説得力を携えていたのでしょうし、その姿に説得力を与えたのはやはり今回のようなカメラワーク(コンテと演出)があったからこそなのだとも感じます。

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また、ここで面白かったのはアーシュラ先生が言い分を言い切った後にアッコのアップショットが映ることです。なぜならそれは、アーシュラ先生ら二人の会話を第三者(ここではアッコ)がしっかりと見つめていたことをも意味するものであったからです。彼女の言葉に耳を傾け、その姿を目に焼き付けていた人の存在。もっと言えば、それを私たちに向け静かに教えてくれたのは他でもなくあの一連のカットのお陰であったはずです。

 

そして、カメラはアーシュラ先生とフィネラン先生の想定線を跨ぎ、やがてアッコの主観へと繋がっていきます。おそらく、相手に迫るアーシュラ先生の動きを右へ右へと印象付けていたカメラワークもこのためにあったのかなと感じます。アッコから観たアーシュラ先生の表情、そのたった一度の反転、イマジナリーラインの超越。もちろん、アッコ側から見ればアーシュラ先生の表情が左向きになるのは当然ですが、ここのワンカットでのみ向きが変わること、またそれがアッコの視点で描かれたことなどを考えれば、やはりこの場面にはそれ相応の意味があったのだと解釈出来ます。背景が白飛ばしっぽくなっているのもアッコの視点から見た先生の表情の鮮烈さをより際立たせています。

 

そして、これはアーシュラ先生とフィネラン先生の関係がどうのと言うよりは、おそらくアッコの心の内にあるアーシュラ先生の印象・立ち位置が変化したことと同じ意味合いを持って描かれた演出だったのだと思います。それこそ、彼女たち二人はこのシーンにおいて一度も会話をしていませんでした。それでも、アーシュラ先生の言葉を間接的に受け取ったことでアッコの中にある “なにか” はやはり変化したはずで、だからこそ先生の真っ直ぐな視線を前にアッコはその目を見開いてしまったのだと思います。なにより、今回の映像の運びはそれを伝えるためのものでもあったのでしょうし、こうして灯る感情の機微を映像として捉えてくれたからこそこのシーンには胸に刺さるものがあったのだと思います。仮にこうした演出を経ずにアッコがアーシュラ先生に感謝を伝えるシーンに繋がっていたら、私自身ここまで感動は出来ていなかったと思います。そう言い切れる程にここでのカメラワーク・演出は秀逸でした。

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ただもちろん、アッコはまだアーシュラ先生があのシャリオであることを知っているわけではないですし、だからこそ彼女はアーシュラ先生を一人の優しい教師としてしか見ていなかったのだとも思います。先生の言葉を受けハッとするアッコを見ると特にそういう印象も受けます。

 

けれど先述したように、今回の出来事を通しアッコはきっと彼女への印象を大きく変えたはずです。それはシャリオであるかないかなど関係なく、彼女の夢を守った “もう一人の魔法使い” としてこれからもその心に刻まれていくのでしょう。また違う視点で捉えればアッコはまたも “彼女が愛した魔法使い” によってその夢へと続く道を守って貰ったのだとも解釈できるのだから、こんな素敵な話はないなとも思います。いずれアッコが “二人の魔法使い” を重ねる日は来るのでしょうか。そんな期待に胸を膨らませながらこれからも彼女たちの行く末を見守っていきたいなと思います。

『小林さんちのメイドラゴン』6話の演出と『MUNTO』のこと

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アバンのカットで思い出したのは『無彩限のファントム・ワールド』6話でしたが、どちらのカットにも根源的には『MUNTO』という作品の影を大きく感じてしまいます。それも本話のコンテ演出を担当されたのは同作品の監督をされた木上益治さん。正直、繋げて語らずにはいられないと言ってしまえるほどに、あの作品は心の内に強く打ちつけられていて、京都アニメーションの水面鏡と言えばやはりあの作品を思い浮べてしまいます。

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現実と別次元の世界の交わりを描いた作品『MUNTO』。際立った画作りとしてはやはり水面鏡を上手く画面の中に織り交ぜるレイアウトがとても印象的でした。常人には見えないものを空に見てしまう少女の話にあって、その空(異世界)を常に意識させるカットの数々には舌を巻かざるを得ません。現実の世界の他にもう一つの世界を空想させる力強い画面の美しさはこの作品の大きな魅力。異世界への扉は常にそこに在るのだと思わされる説得力があります。

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話を戻して本話はどうだったでしょうか。印象的だったのは二人で川沿いを歩く夕暮れのシーン。木上さんらしいレイアウトだなと感じるのと同時に、綺麗なコントラストの空はどことなく二つの世界を柔らかく繋いでくれているようにも見えますし、逆に弱めのグラデーションにはまだ少し残る種族の距離も感じ取ることでがきます。奇しくも本話は群像的にドラゴンと人間との共存を描いた話でもありましたから、どちらの意味合いも含んでいたのかも知れません。『MUNTO』でも同じような色味のカットがありました。水面に写った二人の姿から画面が回転していくカットですが、こちらも二つの世界を意識したカットになっています。

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逆に二つの世界・種族といった距離感を全く感じさせないカットも本話では多くありました。特に傘はパーソナルエリアのモチーフとして色々な作品で使われることが多いですが、本作もおそらくはその内の一つ。二人が一つの傘の中に入る、ということが今回の話ではやはり大切なのでしょうし、それはあのシークエンスのラストカットでも強く表現されていたと思います。被写体を端に寄せたレイアウトは親密度を照らし出し、上部を画面から切ることで本来なら一人一つの傘を持っていることを忘れさせてくれます。水面に映った影も粋な演出。なにより、その後のシーンでカンナが言った「雨が好き」という台詞は違う意味で考えても、やはりそういうことなのだろうと思います。

 

雨は二つの世界を繋いでくれる。雨はその契機をくれる。だから雨は特別なのだと。もちろん、本来は原作からとった台詞なのかも知れませんが、同じような台詞が『MUNTO』にも出てくることを加味すれば、きっとその言葉は木上さんの考える雨の日のロマンとファンタジーに強くフィットしているのだろうと言えるのではないかと思います。

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また、今回の話ではつがいの鳥がよく描かれていました。それが夫婦なのか、家族なのかはもちろん分かりませんが、結び付きを語る画としては十分なほどの説得力を携えていたと思いますし、身体を寄せ合うカットは特に相合傘をするトールと小林さんを連想させてくれます。

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そして、それと連続的に身を寄せあうてるてる坊主のカットがあって、一つ屋根の下で暮らす彼女たちと彼らの姿があり、その背中を見守るようにカメラが置かれる。まさに家族観を象徴するようなフィルムだと感じます。なにより、二つの世界・種族の橋渡しをする本作だからこそ、『MUNTO』という作品との親和性も自然と高くなったのだとも思いますし、そう考えれば木上さんが本作に来られたことはもはや必然と言えるのかも知れません。

 

本当に温かく、情緒感に溢れる演出です。必要なことは言葉で語り、語り過ぎてしまわないように映像でも多くのことを語る。ここまでの話を通してもそうでしたが、それは単衣に京都アニメーションの美学、もとい木上益治さんのアニメーション・ドラマの描き方でもあるのではないでしょうか。これは『響け!ユーフォニアム』5話でも感じたことなのですが、今回の話を経たことでより強くそう思えました。ラストカットのてるてる坊主。あれを長回し気味に撮る意味。あれなんです。

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余談ですが、木上さんらしいなと感じた演出の一つに、カットの切り替わりでパンから被写体にカメラを向けるというのがありました。その中で特に面白かったのがパノラマの一枚背景からぐーんとトールたちにカメラがパンしていったこのカット。本来なら窓辺の辺りにもパースがつくと思うんですが、自然に正面に周っています。ルコアと翔太君の家で談笑する場面でも変則的なパンがありましたが、この辺りのカメラワークは見ていて面白いなと感じますね。

『小林さんちのメイドラゴン』5話の演出について

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光源側にトールが立っているというのが非常に示唆的だったカット。周囲から「変わった」と言われる小林さんを “変えている” のは一体誰なのかということが非常にセンシティブに描かれていたと思います。陰影を意識した画面の構成はこれまでも何度かありましたが、光と陰でしっかり立ち位置を区分するというのは本作だと新鮮に感じられました。最近だと『響け!ユーフォニアム2』4話なんかが顕著で、その話を担当された小川太一さんが今回も演出をされていたわけですが、コンテは石立さんとの共同なのでその辺りがどういった配分・掛け合いで制作されていったのかは気になります。

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特にこの俯瞰のカットは他のカットより光量が多く描かれているようで面白いです。トールが自分の職場を覗きに来ていたというのが明らかになった直後なのでより光を当てる格好になっているのと、横構図でなく俯瞰である分、くっきりと陰影をつけるよりはこうして二人の間を光で渡すことで画面的な映えを意識したのかも知れません。例えば前後のカットのように二人を陰影で区分してしまうとレイアウト・構図的にトールだけが光で囲まれたような画面になってしまうと思います。なので、それを避けるためという意味合いはもちろんあるのかなと。ですが見栄えの問題を考えなくともここはトールの光が小林さんに向けられていることを描くためにこういう画面である必要性はやはりあったのではと感じます。

 

また帰路につく時にそのままカメラを据え彼らの背中を映していたのも凄く良かったです。見守るような視線・カメラ配置というのは一話から徹底して描かれていたように思いますし、このパートのラストカットをイメージBGのカットで締めたことさえそういった演出の一環だったのではないかと思います。妙な縁から一緒に居ただけだったはずの二人が少しずつ家族としての関係を構築していく温かさと、それを映像で紡いでいく優しさがあります。画面から体温を感じる、というのはこういうことなのかも知れません。

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この辺りの見せ方も良かったです。信号機のモチーフはベタですが京都アニメーションの作品でも結構出てきますので、そこでも連続性を感じられます。なによりこのシーンを素晴らしいと思えたのは、トールの葛藤を描くことに注力していたからではなく、むしろトールが抱く小林さんと暮らす日々への大きな愛を強く感じることが出来たからということが一番大きいです。それこそ葛藤するような雰囲気を全面に出していたのはファフニールが忠告したシーンくらいのもので、あの辺りは山田尚子さんぽい?手ブレとボケの処理で心の揺れをしっかりと描写していたと思います。ですがトールは続けざまに「今、ここが私の居場所ですから」と前を向いて語り始めます。寿命がれっきとして違うことも、いつか別れが来ることも理解しているし、人間を蔑む気持ちもある。それでも過去や未来を悲観するのではなく彼女は “今” を懸命に肯定しようと顔を上げるのです。

 

理屈ではなく感情を優先し、憎悪を打ち消し愛を語る。そんな彼女の姿に私は強く胸を打たれました。屈託のない笑顔で「(この世界に掛ける価値は) あります。小林さんがいますから」と言い切る彼女はまさに人の心を知る人間そのものだったように思います。

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まただからこそ、Bパート後半の話が生きる。人と暮らす道を選んだトールは、それ故に人間のことをもっと知ろうとする。けれど私たちは既に “彼女が人と暮らすために必要なものを持っている” ことを知っているわけです。それは誰かを愛そうとする心であったり、自らを省みながらコミュニケーションを取ろうとする姿であったり。そしてそれを小林さんも分かっているから、そんな無理しなくていいんだよと諭そうとする。でも少し目を落とすとそこには彼女が “人間でない” ことの証がちゃんと存在していて、嫌でも思い知らされてしまうんです、彼女がドラゴンであるという事実を。

 

その辺りのナイーブな部分にまでちゃんとスポットを当てたり、視線誘導してくるのはさすがだなという思いもありつつ、そこは見逃してくれないんだなぁという思いもあったりで色々複雑な心境ですが、そういった場所にもしっかりメスを入れてくれるからこそ私は京都アニメーションが描く家族観や群像劇というものを信じ続けていられるのかも知れません。

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ちゃんと視線を落とす動きを入れてから主観のカットや示唆的なカットに繋ぐカッティングが凄く巧くて溜息すら出てしまいますね。今回で言えば、視線の先に尾と角が。画面の余白を使う見せ方も上手いです。間も情感たっぷり。

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言葉数少なく表情と芝居・レイアウトやその場に流れる時間の速度で感情を伝えようとしてくれているのが素敵だなと思います。喋ってしまえば野暮になってしまうことも、心の内でなら。そんな優しさを感じるフィルムです。

 

それこそあの場面において言えば “小林さん自身さえも” そうだった(喋ってしまえば野暮になると考えた)のかも知れませんよね。ドラゴンと人間、見てきた景色の違いや、それぞれに得手不得手はあっても、通じ合える部分は確かにあると教えてくれたここまでの物語。小林さんが伸ばした手の先でなにを伝えたかったのか、その全ては分かりかねますが、その手を引き、少し微笑んで見せた彼女の気持ちはなんとなく分かるような気がしています。

 

もちろん、小林さんはトールとファフニールの会話を聞いていたわけではないと思いますが、ああいう風に考え、決意していたトールの気持ちを彼女は既に十分受け取っていたはずです。だからこそ、頑張るトールを見守っていよう、彼女の優しさを受け取ろうと小林さんは身を引いたのかも知れません。それでも小林さんが「頑張り過ぎないで」と身を寄せてしまう気持ちも分かる。だから、少しづつでいい。一歩ずつでいい。焦ることなく、これから共に生きる日々をより大きな “信頼” へ変えていって欲しいなと今は切に思っています。