『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』5話の演出について
あまりに印象的であり、引き込まれてしまった影中のファーストカットからの導入。振り返れば「誰かの心をぽかぽかさせることの出来るスクールアイドルになりたい」と日本にやってきたエマの心情が鮮明に映し出されたシーンでした。それも "ぽかぽか"という言葉から連想される陽だまり、その中に飛び込んでいくよう描かれた彼女の踏み込みは、この虹ヶ咲学園がエマにとって光そのものであることをも強烈に描いていました。それはこれまで彼女自身がスクールアイドルの動画を見てその心を温めていたように、エマのこれからの物語を照らす輝きをもそこに映し出していたはずです。
ですが、そんな冒頭のシーンで描かれたのはエマの物語だけではありませんでした。想うがまま歩き続けた先に陽のあたる場所を見つけたエマのように、その後ろから同じようにこの場所へやってきた少女の姿が描かれたからです。それが朝香果林。エマにとってはおそらくこの学園で初めての友人となる人でした。
ともすればエマが運命の人に出会ったかのようなシチュエーション。ですがそれは果林にとってもきっと置き換えられるものであったはずです。後に明かされる彼女の悩み。好きなものを好きと言えない苦渋、自分という存在への葛藤。そんな後ろ向きな想いを密かに抱いていたからこそ、もしかすれば果林にとっても "陽のあたる場所へ連れ出してくれる人” が必要だったのかも知れません。それは、この学園そのものがエマを照らし出す存在であることを描いた冒頭のように、果林にとってはエマという存在こそが彼女にとっての光になり得る人であることを描き出していたのだと思います。
それこそエマが上手から下手へ向け歩き学園を見上げていたあの構図が、今度は果林が上手に立ち、下手側に居るエマを見据える構図へとシームレスに移ろいでいたのも物語的には同じことなのだと思います。エマがスクールアイドルと出会う、学園に向かい合う、果林と出会う。そんなエマ自身の物語とは別の、これは果林がエマと出会う物語でもあったはずだからです。
そんな二人の物語を象徴するように互いの立ち位置が度々入れ替わっていたのは、本話が映像の側面から強く物語を支えていたことの証左に他なりません。エマと出会ったことで少しずつ "なにかに" 引かれていく果林のもう一つの側面と、それは自分らしさじゃないと想いを避け続ける従来の側面。そしてそんな彼女の姿を見続けていく中で、多くの想いを抱いていくエマの心情。そういった複雑な想いが交差するからこそ、物語の主体、つまりは上手に立つ人が入れ替わるというのは、やはりとても素敵な見せ方だなと感じずにはいられませんでした。
もちろん、全てのカットに立ち位置と心情のリンク、そういった演出的意図が込められていたわけではないのだとも思います。ですが、冒頭でもふれたように、あのファーストシーンの中でライティングや動き・立ち位置の向きを心情のモチーフとしてあそこまで強く描き出していたのを踏まえれば、やはりその延長としてその後の映像を捉えずにはいられません。この話の中で横構図が多く描かれていたのもその理由の一つです。向き合うことを印象付ける構図であるからこそ、やはりそこにはエマと果林の心情、その対峙を強く見てしまう。そしてそれが一つ一つ、彼女たちが抱える等身大の感情へと橋渡しされていくのを感じる度に、「ああ、良いなあ...」と、どうしても思ってしまうのです。
こういったカット、シーンも同様です。スクールアイドルになることを頑なに拒む果林と、そんな彼女を前にどうするべきかを迫られるエマ。"どうするべきか" の物語がエマに対し強く託されるからこそ、ここで彼女が上手へ立つということにドラマが生まれる。そして窓際のシーン、アバンのリフレイン。再び光を浴びる中で、エマ自身ももう一度、最初に抱いた自分の想いを反芻していたのでしょう。"誰かの心をぽかぽかにする" というその夢と向き合うために。「本当はみんなの心をぽかぽかにしたいのに...」という彼女自身の言葉もそうですが、そんな言葉を先取るよう描かれた映像にはグッと引き込まれました。
だからこそ、果林の本心に少しでも触れることができればもうエマに迷いはなかったのだと思います。誰かの心をぽかぽかにしたいーーその心に少しでも触れたいと強く想う彼女だからこそ、あとはその願いを叶えるために奔走し、確かめるだけだったのでしょう。最初のシーンで抜けた橋の下を再度抜け、再び陽のあたる場所へ。そして、エマ自身が信じる道へ。なにより果林がそうしたいと言うのなら、この "陽だまりの場所" に彼女も一緒に。そんな物語と映像のドライブ感。
そんなエマの行動に促されたからこそ、最後のシーンでは再度果林が上手に立つことになるのでしょう。その手を引き、ここまで連れてきたからこそ、今度は "どうするべきか" を果林が決める番なんだと。切り返しのカッティングを使い二人の会話が刻々と捉えられていく中、執拗にその合間で描かれた横構図は、二人にとって "今この瞬間に向き合うこと" がどれだけ大きな意味を持つかをまさに裏づけていました。
しかし、それすらも避けてしまう果林。冒頭でも触れた "自分という存在への葛藤" が彼女の足をこの場所から遠ざけてしまい、だからこそまた立ち位置が入れ替わる。力込もる手の芝居も印象的で、その輪郭に強く光が反射するということが「本当はスクールアイドルをやりたい」という彼女の本心を滲ませているようで、観ていてとてもつらく、悲し気に映りました。
けれどそんな本心を彼女自身の言葉としてしっかり届けてもらえたからこそ、もうエマにとっての "どうするべきか" という想いの行方は決まっていたのだと思います。彼女を部屋から連れ出したようにその身体を繋ぎ留め、再度彼女の手を引く。果林が想う "今本当にやりたいこと" が待っている、陽のあたる場所へとその足を踏み込ませるために。
それを象徴するように描かれた差し出される手のカットの連続。手を引くという行動が本話にとっては、一つ大切なものとして描かれていたように感じたのもこの辺りからでした。果林にとってはエマ自身が光であったことを裏づけるよう、劇中歌の中で果林視点のカットが多く描かれていたことにも胸を打たれます。どこまでも "連れ出す"/"連れ出してもらう" ことに重きを置いたフィルムであり、その境界を表現したライティングがあまりに美しく描かれたラストシーンだったのではないかと思います。
そして、劇中歌が終わると同時に再び、立ち位置が変わる。それも二人が出会ったあの日と同じ立ち位置に。なにより、それはエマがいつの日か夢にみた「誰かの心をぽかぽかにしたい」という願いと、果林が胸の奥に閉じ込めていた「今本当にやりたいこと」という願いが、奇しくも同時に叶った瞬間でもあったのです。ラストカットに果林の屈託のない笑顔で据えられたことは、そのなによりの証。彼女のあの表情を順光で、正面から捉えてみせたことには、それを裏づけるためのものとして、とても大きな意味があったに違いありません。
それこそ影中から始まった物語が陽のあたる場所へ出て(順光で)終わる、という軸が今回の話にはあったのかも知れないな、などと思えてしまうほどに終始一貫した今話の見せ方にはより強く美しさを感じました。そしてその映像的美がそのまま彼女たち二人の物語へと還っていくのだから、もう本当に堪らないなと思います。
幾度となく立ち位置(想い)が変遷していく中で、変わらずそこにあったのは向き合う二人の姿と、その視線。願わくばその先には二人にとってもっと "面白そうな未来が待っている" ことを信じつつ、これからも一歩一歩進んでいく彼女たちの姿を見守っていければいいなと強く思います。本当に素適な挿話でした。