『ラブライブ!スーパースター!!』1話とヘッドフォン、その演出について

f:id:shirooo105:20210718211729j:plainf:id:shirooo105:20210718211737j:plain

全体的な映像のリッチさ、街の景観、見栄えなどがとても良く、観ていてとてもワクワクさせられた本作でしたが、そんな中で個人的に気になってしまったのが主人公・澁谷かのんが持つヘッドフォンの存在でした。なぜなら、本話においてはそのヘッドフォンを装着する仕草は描かれても、そこから音が流れるという描写は一度たりとも存在しなかったからです。

 

冒頭からしてそういった方向性は顕著で、それこそ音楽好きのイコンとしても読み取れるヘッドフォンを装着した後、かのんがつぶやいた言葉は「これでなにも聞こえない...」という "音を聴く" 行為とは正反対のものでした。もちろん、それはアバンでも描かれていた "みんなの前で歌を歌えなくなった" ことから由来していた行為なのだろうことはこの時点でも察しはつきますが、それでも音楽がかかる描写がない、というのは個人的にかなり強い引っ掛かりを覚えるものでした。

f:id:shirooo105:20210719002321j:plainf:id:shirooo105:20210719003735j:plain

街を駆け抜ける際もヘッドフォンはしっかりしたまま。そして周囲を確認する仕草。おそらく、このヘッドフォンは何かを聴くというより、なにかが聞こえてしまうことから身や心を守るための役割を多く担っていたのだろうと思います。どちらかと言えばイヤーマフ的な存在*1で、そうして彼女は外界からの言葉や音、しいては "音楽" そのものを遮断していたのでしょう。

 

それは、彼女が歌を歌えなかったことが理由で受験に失敗してしまったこともまた多く影響していたはずです。音楽科へ合格していた友人たちとの邂逅シーンでもそう。ヘッドフォンは外していますが、どこか会話はたどたどしく、無理をしている印象。カットバックした際、かのんの正面位置から捉えたカットでは、常に背景に "分かれ道" が映り込むなど、かのん自身と他者との間には常に隔たりがあることが伺えました。

f:id:shirooo105:20210719004419j:plainf:id:shirooo105:20210719005246j:plainf:id:shirooo105:20210719004545j:plain

そういった隔たりの象徴としては、ライティングによる描写も同様の効果を含んでいたと思います。パキッとした影づけによる境界感。それこそ (体勢的にそうなるとは言え) 、ヘッドフォンにまでしっかりと影がかかっている、というのが個人的にはとてもツボでした。前述したように、時に音楽好きのイコンとしての役割も果たすヘッドフォンですが、そこに陰りがあるということが、そのまま彼女自身の音楽という存在に対する感情の惑いに直結していく描写と成り得ていたからです。

 

時系列的に話は飛んでしまいますが、可可の勧誘を断るシーンでもそれは同様でした。他者や音楽に関わる多くの物事に対する分断。猫と戯れるシーンでは前景、後景に映る順光に照らされた道行く人の存在がかのんとの対比としてしっかりと活きていて、より強く彼女と周囲との距離感を演出していたと思います。

f:id:shirooo105:20210719010048j:plainf:id:shirooo105:20210719010152j:plain

しかし、かのん自身は決して音楽を嫌っているわけではなかったのでしょう。その心奥深くに大切にしまっていたであろう感情は未だに健在で、だからこそ彼女は人が居ない場所では歌えるし、表現を止 (や) めることをせずに済むのです。そして、それがかのんにとっての本心であり、音楽という存在に対して持ち合わせている本懐なのだと思います。

 

なにより、それこそがこのヘッドフォンから音楽が鳴らない理由でもあったのでしょう。それは "澁谷かのんにとっての音楽" を鳴らすことが出来るのは、彼女自身の想いや行動でしかあり得ないということ。彼女の音楽を満たすのはヘッドフォンから流れる音では決してなく、彼女の口元から紡がれる音でしかないのだということ。他の誰でもない、あなたがやると決めたことを肯定してくれる、世界が受け入れてくれる物語。そもそも『ラブライブ!』ってそういう物語だったじゃないかと、そんな風に思えたことで私が抱えていた "ヘッドフォンへの懐疑的な印象 (音が鳴らないことへの疑問)" は次第に薄れていきました。

f:id:shirooo105:20210719011352j:plainf:id:shirooo105:20210719011402j:plain

それこそ振り返れば、いつだって彼女がヘッドフォンを装着し損ねた瞬間というのは、誰かの声/歌を聞いた瞬間でした。常に "音" があるのは外側で、ヘッドフォンの内側からはなにも鳴らない。だからこそきっと、かのんには彼女の名を呼ぶ声や、彼女を誘 (いざな) う歌が必要だったのかも知れません。本懐としてその心根に根付いている感情を、今一度呼び覚ますために。そしてその役割を一身に担ったのが、他でもない唐可可の存在だったのだと思います。

f:id:shirooo105:20210719040530j:plainf:id:shirooo105:20210719040540j:plain

それこそ、二人の問答の末、可可の声さえ一度は閉ざすことを選ぼうとしたかのんですが、やはりその声は彼女の心根にしっかりと触れることが出来ていたようでした。「本当にこのままでいいの?」という自問自答があったことも、そんな可可の度重なる呼びかけがあったからに他なりません。人前で歌を歌うことが出来ない自分自身への失望と落胆と、しかしそれでも音楽が好きだという忘れられるはずもない気持ちへの橋渡しをしてくれた可可の言葉。たとえヘッドフォンをしていたとしても、その声はどこまでもかのんの中で残響し、彼女の気持ちを強く揺らしていたのでしょう。

f:id:shirooo105:20210719042014g:plainf:id:shirooo105:20210719042045j:plain

そして今一度、自身で作り上げてきた "他者や音楽" との隔たりの前で立ち止まり、逡巡するかのん。その耳に届き、聞こえた幾つもの言葉を反芻する中で、彼女が出した答えはその踵を返し駆け出すというものでした。隔たりの向こう側へ逃げるのではなく、可可や音楽という存在に対し、しっかりと向き合うことを自らの想いで決めた瞬間。また、だからこそこれまで外界との隔たりをつくりあげていたあのヘッドフォンすら今の彼女には必要なく、それを自らの手で外すという行為そのものにも大きな意味は生まれ、これが "彼女の選択" であったことがより強く、鮮やかに描き出されていくのです。

f:id:shirooo105:20210719103555j:plainf:id:shirooo105:20210719103606j:plain

そして描かれる真正面のカット。ここまで彼女の表情に接近し、正面にカメラを据えられることこそが、この時語られた「やっぱり私、歌が好きだ」という言葉がどこまでも嘘偽りのないものであったことの証左に成り得ていました。加えて、そのまま突入するライブシーンではそれまで描写されていたヘッドフォンが一切描かれなくなることで、その必要性を感じさせない心持ちに彼女が立ったことを示していたようにも感じられました。ライブシーンのファーストカットからして、彼女の首元にフォーカスをあてるようなものであったことも、そう思えることに拍車をかけていたのでしょう。

f:id:shirooo105:20210719105220j:plainf:id:shirooo105:20210719234412j:plain

さらに面白かったのはラストシーン。ライブシーンが終わった直後の描写ですが、まるで現実世界に戻ったようなカット構成であるにも関わらず、ヘッドフォンの存在がそのまま消失していことにはかなり驚かされました。前述したようにライブシーンに突入することでヘッドフォンが一切描かれなくなることに対しては大きな意味があると強く信じていますが、あれはある種のファンタジー描写だからこそ出来る芸当だと私は思い込んでいたのです。ようは『ラブライブ!』のライブシーンって空想世界のような質感が強いから、そこでならなにがあっても良いっていう前提が自分の中にはあった、ということなのです。

 

だからこそ、現実のシーンに戻ればヘッドフォンも戻ると思い込んでいたわけですが、本作はそうはしなかった。まるで、魔法のように消えてしまったヘッドフォンですが、同シリーズがこれまでもそうであったように、彼女たちの感情に対し世界が応え、その形を変えてしまうほどの理 (ことわり) が本作にもあるのだとしたらーー。むしろ、ここでヘッドフォンが消えてしまう流れが生まれたことは当然の結果だったと言えるのかも知れません。なぜなら、そんな分断の象徴を消し飛ばしてしまうほどに、かのん自身が "歌を歌う" ことと向き合えたということなのだから。

 

そんな風に考えると、本作を観ていくにあたるリアリティラインの設定的にも、かのんの未来に対しても随分と視野が広がるような実感があって、なんだかこれからの物語の行方がより一層楽しみに思えました。

*1:そもそも、これはヘッドフォンではなくイヤーマフであるという可能性も否定できないが