アニメにおける脚・足先描写の素晴らしさについて

『NEW GAME』3話を観て衝撃を受けました。3話は全体的に観ても大変素晴らしく、キャラクターたちの感情の乗り方やその想いを映して描かれる仕草への拘りが非常に色濃く出ていたわけですが、その中でもBパート終盤のベンチに腰を掛けてからの一連のシーンは溜息が出る程に凄く丁寧に描かれていたと思います。

あの瞬間、友人と嬉々として話す青葉がどういう感情を芽生えさせていたのかということが端的に読み取れるフィルム。自分の好きな作品を語っている内にどうしようもなく楽しくなってしまう心の変遷を、言葉ではなく、彼女の仕草で表現することでその想いが決して嘘ではないと寡黙に伝えてくれる足先の表情。


それこそ四肢の表情づけって見た目よりずっと大変な作業で作画的なカロリーもかなり高い難しいものですから、無理にそういうカットを入れる必然性って実はないはずです。でも、ああいうカットを入れる必要性はあったりして、それこそ楽しげに語り合う会話や青葉の表情だけでは決して語れない彼女の“好き”の気持ちってあの足のカットがあるからこそより明確に伝播するものだと思います。言葉だけで表現する“好き”より、自然と動いてしまう身体や四肢の挙動で楽しさや愛情を表現することの意味。それは私たちが日常生活を送っている中でも時に遭遇することの出来る感情の伝染に他ならないはずで、そういったシーンの積み重ねが物語へ感情移入するための切っ掛けにすらなっていくものなのだと私は思います。

そしてその仕草は時に憂いや寂しさ、悲しみの象徴として描かれることもあれば、女性的のものの象徴として可愛らしさや淫靡さをそれとなく含ませ描かれることも少なくはありません。前者で言えば特に素晴らしかったのは『アイドルマスターシンデレラガールズ』17話。赤城みりあ城ヶ崎美嘉とベンチに腰掛け会話をするシーンです。


妹のために色々なことを我慢しなくてはならない姉としてのちょっとした寂しさを足先で表現したあの描写は個人的にもかなり気に入っているシーンで、あのカットがあるのとないのとではやはり彼女の心への寄り添い方も違ったものに変わっていたのではないかと思います。それもまだ幼さの残るみりあだからこそ、その感情は言葉より身体での表現を是とし、うまく伝えられない心のもどかしさをあの足先は言葉の替わりに私たちへと伝えてくれる。そして言葉ではないもので伝えようとするからこそ訪れる余韻。それは彼女たちの心を想像する余地すらもしっかりと我々に与えてくれるのです。

女性的な表現としての脚と足先の表現。可愛らしさや美しさを結晶化したような女性特有のシルエットとその挙動はまさに男性である私の心を潤してくれる心のオアシスです。


もちろんそうしたフェティッシュな部分以外でも、音楽に合わせ描かれるステップや足先の挙動などを観ているとそれだけで楽しくなれますし、そういった描写に出会えただけでも満足出来てしまうことがあるのだから面白いです。単純だなとは思いますけど、でも楽しそうにしている人を見ているとなんだかそれだけでこちらまで楽しくなってしまうこともあるように、単純なことこそがやはりダイレクトに感情を伝える役割としてはとても優秀なんじゃないかなとも思うのです。

何より単純なこと、単純な動きであるからこそ、その動きや描写へ感情を乗せるとなればそこに割かなければいけないリソースは必然と上がっていくのだと思います。そして、それは作画や影指定にレイアウト、色彩指定にタメツメにおけるコンマ数秒単位の拘りにまでことは及ぶわけで、その苦労を思うとこういった丁寧な芝居・作画には余計ありがたさを感じてしまいます。それこそTVアニメという媒体においてはその全てを拘り抜くことなど早々に出来ることではないわけですから、やはりどうしても目を見張るシーンがあれば心踊らずにはいられないですし、何度も繰り返し観てしまいますよね。


もちろん、手先の描写にも拘ってる作品はあって同じように素晴らしさを感じるわけですけど、やはり個人的には脚や足先の方に目がいってしまうのは否めず、だからこそ余計に記憶にも残りやすいというのはあるのだと思います。他にも例としては『血界戦線』EDでのステップや、『けいおん!!』20話・最終回の脚の作画や表現は特に素晴らしかったですよね。そこにはアニメならではの少し現実より過大な、けれど確かに感情が込められていると読み取れる動きの数々が散りばめられていて、ああいう描写を観る度に「アニメって本当に良いな」とその素晴らしさをどうしても肌で感じてしまうのです。
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少し長くなりましたが最後にどうしても紹介したかった脚・足先の描写をいくつか紹介してこの記事の締め括りとします。これは『言の葉の庭』の一幕ですが、新海監督自らが「この作品唯一の濡れ場」と語るだけあって、足先に漂う色気からは他の作品の追随を許さない凄みを感じます。他にも足先の描写などは本編でもかなり多用されています。梅雨アニメであると同時に足を見せるアニメとしても本当に良い作品です。

脚アニメの権威『あいうら』。この作品の脚の描写とその作画・影づけに対する拘りは本当に凄いです。健康的な女子校生の肉感を大事にしつつ、それでいてエロい。膝裏や脹脛(ふくらはぎ)などの筋肉のつけ方、筋に対する線や影の寄せ方など感嘆するほどです。作品自体も大変素晴らしいですが、最近の脚アニメと言えばこの作品、というくらいにはかなりの脚密度だったと思います。11話で雨に濡れたソックスをさきちゃんが脱ぐシーンは得に語り継いでいきたいです。

また、上記でも一つ紹介したように『アイドルマスターシンデレラガールズ』もかなり足元を意識した作品になっていたと思います。主題歌で謳われていた「10センチの背伸び」の意味を模索するかのような作劇に、ガラスの靴、魔法といったモチーフの数々。そしてその魔法は「自分の靴で今、進んで行ける勇気」なのだと語るその意味の全てを作中では彼女たちの足元に託していたのではないかと思います。13話で渋谷凛が見せたあの背伸びはその象徴なのだと思います。足首の影づけも非常に良いです。その他にも素晴らしかった作品として『城下町のダンデライオン』4話も紹介しておきます。
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最後に教えて頂いた素晴らしい脚描写を紹介します。


今年観た中でもかなり高いレベルの脚の描写です。巧いですね。こういった描写一つだけで作品の印象をも変えてしまう力を持っているのだから堪らないです。本当に脚・足先の描写が素晴らしいアニメって素敵だなと思います。

赤い傘、心の壁、牧穂乃果曰く 『キズナイーバー』7話

物語も佳境に差し掛かってきた『キズナイーバー』7話。語られたのは常にポーカーフェイスを決め込む牧穂乃果の過去と今の彼女に至る出生の秘密だったわけですが、その軌跡に描かれていたのはやはり辛く険しい物語そのものでした。


信じたい気持ちと信じた先に幻視してしまう絶望の未来。誰だって傷つきたくない、傷つけたくないと願う中で、それでも自分の心を守る判断を下した穂乃果の決断は決して咎められるものではないと思います。だって失うことは誰だって怖い。いっそのこと最初から無い方が良かったと思う程に、持っていたものがその手の中から消えていくことって凄く恐ろしい。だからこそ、相手を突き放してしまった彼女の気持ちも痛い程に伝わってくるんです。彼女自身、その後の心の距離感に苦痛を感じていなかったはずがないし、むしろ「瑠々と距離を置く」という決断は彼女が痛みを押し殺しながら刻んだ傷でもあったはずです。裏切ったとか、見捨てたとか。そんな単純なことじゃない。決してそんな風に割り切っていいことじゃないんですよ。

けれど仁子の言う通りそれは“穂乃果だけの気持ちであり、彼女自身にしか分からない【痛み】”でもあるわけで、その真意も伝えようとしなければ誰かに伝わることは決してない。それは瑠々がどういうつもりで穂乃果を押し倒したのかが分からないことと同じように、つまりは他人の感情を完全に掴むことなんて人間には出来ないということをそれは逆説的に証明してしまうんです。もちろん、本当に仲が良ければその輪郭くらいは掴めるのかも知れない。でも、その内情までは分からない。そしてそれはあのキズナシステムをもちいても実現には至っていないわけで、云わばそんな“心の壁”とさえ呼べる強靭なバリケードを人は抱えている。


自分の明かしたくない気持ち、想い、感情。そんな抽象的で曖昧なものを外に漏らさないために打ち付けられた心の壁。けれど、その壁は外に出したくない気持ちを漏らさずに済む替わりに、外へ押し出さなければ心が壊れてしまう感情の濁流をも押し留めその内側から人を蝕んでいく諸刃の剣。だからこそ、ようはバランスが大切だと思うんですが、穂乃果の場合はそれを上手く使いこなすことが出来なかった。心の中にあったもの全てを堰き止め何もかもを自らの内に閉じ込めてしまった。それが今の状況に繋がり、最悪の形を象ってしまったのだと思います。

故に彼女は素直になれない。自分自身に正直になれない。彼女自身は正直に生きているつもりでも、時折崩れるそのポーカーフェイスから滲むように感情が零れ出し、彼女の心が何処にあるのかを分からなくしてしまう。分からないから進めない。分かりたくないから進まない。前へ出そうとする足はその場を空転するばかりで、あの日から穂乃果は一歩たりともその場を離れることが出来ていない。抜け出すことも出来ず、突き進むことも出来ずにただ漠然と過ぎたであろう彼女の月日。もはや彼女にとってシャルル・ド・マッキングとは呪いの言葉でしかなくなっていたのでしょう。

もちろん二人の過去が“呪い”になってしまったことの原因の一端は瑠々にもあるのだと思います。彼女の言葉が穂乃果を苦しめ、その思考をネガティブなものに変えてしまったのはまず間違いない。けれど穂乃果自身も瑠々には“言えなかった”言葉が確かにあったわけで、その点を鑑みれば瑠々だって同じように進めなくなっていたのかも知れないんですよね。だって、二人揃ってのシャルル・ド・マッキング。あの漫画がもし大団円を迎えるのならそれは二人の手によるものでなくては成立しない。


だからこそ頷けるのは「最終話の評判が悪かった」という世間の一説。だって一人じゃ描けるわけがない。二人で築き上げてきた物語は決して一人の筆先では埋まらない。一筋縄じゃない。そんな簡単に突き放せるわけなかったんですよ。

でも逆に、だからこそ彼女は最終話を一人で描くことへと踏み切ることが出来たんじゃないかとも思うんです。だってあれは物語の続きじゃない。漫画という媒体の最終話。その体を成して描かれたあの作品は間違いなく“穂乃果と瑠々が辿り歩んだ物語の最終話”に他ならないからです。


瑠々が精一杯の気持ちを込めて紡いだ言葉。いつか穂乃果がもし、このページを読むことがあればその言葉があなたの心へと届き、その支えとなるように。「あなたの笑顔が、大好きだから」。一番伝えたかった言葉を、一番伝えたかった人へ向けて描いた最終回。それは進むことが出来なくなってしまった瑠々がそれでも前へと進もうとした証に他ならず、形容するならそれは決して“呪い”などではなく、むしろ“希望”とも呼ぶことの出来る言葉だったのではないかと思います。


そしてもし、穂乃果と瑠々の間に違いがあるのだとすればきっと“そこ”なのでしょう。相手の本心が分からない中で、それでも私には伝えたいものがあると追い縋ることが出来るのかどうか。傷つくかも知れない。嫌われるかも知れない。けれど伝えなければ何一つ前へは進めないという決意。心の壁を破り、たった一言伝えてみるだけでいい。「笑って」って。「大好きだよ」って。たったそれだけのことがこんなにも眩しく前を照らしてくれる。だから進んでいける。歩いて行ける。“伝える”ということがいつの日か“あなた自身”の道標になる。

悲しみは其処此処に積もる。それは時に激しく、時にしたした降り注ぐ雨のように心の底に溜まり辛かった記憶を映し出す鏡にもなる。だから傘は必要だ。こんな薄暗いどんよりとした天気の日にはいっそ真っ赤な傘を差して一人歩くのもいいかも知れない。もちろん気分は晴れない。けれど、これ以上悲しみに晒されずに済むから。これ以上自分を曝け出さずに済むから。ああ、なんて便利な傘。我が心の壁。


けれど、少しそこから顔を覗かせてみるとそこには友と呼べるか呼べないかまだ分からないような奴らの顔があって、実は雲間にもたくさんの星々が輝いて居ることを知って、降り注ぐ雨にも意外と嫌な気持ちを抱かないことを知ることができるわけです。それは“伝えてみなければ分からない”ことと少し似ていて、だからこそあの瞬間、彼女は自らの心の壁を少しだけ取り除き「キズナイーバーから始めませんか?」と、彼らに伝えることが出来たのだと思います。誰に諭されるわけでもなく、誰に従うわけでもない。傘を持つ手を自ら降ろすことの意味は見た目以上に大きい、勇気ある“あの日”から前へ進むための一歩に他ならなかったのだと思います。

そして、それは伝えることの大切さを語ると同時に“他人の感情を完全に掴むことは出来ない”という一つの事実に対する反語、“それでも人の感情はどこかで交わるのかも知れない”という希望をも雄弁に語り掛けてくれていたのでしょう。


なによりこれは感情と感情、痛みと痛みの交錯の物語。心の完全な通いを否定しておきながら、しかしそれらが象る感情の曲線は必ずどこかで交わるのだと力説する『キズナイーバー』。その交錯する点こそが“絆”であり“希望”に他ならないということをこの作品は伝えたかったのでしょうし、今回の話で言えば穂乃香と瑠々にとって「あなたの笑顔が好きだから」というそのたった一つの心の通いが“希望”であり、“交錯点”だったということを描きたかったのかも知れません。最後に、願わくば彼女の零した言葉がどうかあの人の元にも届いていますようにと祈りつつ。「私も」と伝えることの出来た彼女の成長と大きく踏み出された一歩に今はただただ心を寄せていたいなと思います。

青春と敗者のためのアンセム、そして少女は飛翔する ―― 『響け!ユーフォニアム』 番外編を観て

被写界深度を浅めに据え、まるで一人ひとりの物語を切り取るかのよう誰に向けても優しい視線を傾けてきた作品 『響け!ユーフォニアム』。まだ成長途上であった少年少女の表情をしっかりと収め、そのまなざしの先に”夢“を託す本作の姿勢は終始一貫して、この物語の最大の魅力として描き続けられていたように思います。


諦めないで邁進すること。力を合わせ大きな目標に立ち向かっていくこと。言葉にすれば少し安っぽく聞こえてしまいそうなそんなフレーズを、京都アニメーションの映像美と感情的なフィルムで劇的に描いていく本作のスタンス。少年少女の一時代を切り取り、それを“青春”と呼ぶことになんの躊躇いも厭わないその真っ直ぐさには、まるで“これが自身の過ごした青春時代である”と錯覚する程の熱量が込められていたようにも感じられ、その場面ごとに描かれる登場人物たちの“向き合い方”を前にしては強く心を打たれることも少なくはありませんでした。


そして何を隠そう、本作が真に優れていたのは“向き合うこと”を余儀なくされた少年少女たちの心模様を決してポジティブな観点からだけではなく、ネガティブな観点からも繊細に描き出してくれたからに他ならないのだと思います。勝者が居れば敗者が居る。そうした物語の力学上に厳然と横たわるリアリティを受け止めた上で尚、手が届かないと思われる目標にも“夢”を託していくということ。叶わない夢もある。儚く散る想いもある。けれどそこには燦然と輝く誰かのための夢が確かに存在したのだと語る作品のプロセス。それが本当に美しいんです。

特に葉月の場合は何か明確な夢を持って吹奏楽部に入部したわけではありませんでした。なんとなく入部して、なんとなくチューバを手に取って。時には「なんで私こんなことやってるんだろう」なんてアンニュイな気持ちになることもあったはずです。けれど彼女は恋をして変わりました。青春の代名詞とも呼べる感情の芽生え。火照るような未来への衝動。久美子や麗奈が音楽へ情熱を傾ける様に、それは彼女にとって紛うことなき “夢” と呼べる感情に他ならなかったのだと思います。だからこそ、そう簡単に割り切れる筈がないし、諦め切れるわけだってなかったのでしょう。それはどんな手段を遣ってでも自分の夢を叶えようと奔走した優子のように。「悔しい」と涙を流しながら夜道を駆け抜けた久美子のように。


全ては違うようでちゃんと繋がっていて、ようはみんな同じなんです。夢のベクトルが違うだけで、そこに向け込められた熱量は誰においても差なんてない。この物語が「登場する全ての人物を主役」と謳うのも同じことで、順風満帆な青春だけが特別なわけでは決してない。何かに対し一生懸命になること。何かに向け目一杯の想いを費やすこと。挫折したっていい。失敗したっていい。そうした経験の数だけきっと“あなた”たちは強くなれる。この番外編にはそんな願いのようなものが込められていたように思えてならないのです。

だからこそ、この物語は往々にして敗者に向け贈られる讃美歌にも成り得ることが出来たのだろうと思います。何かを成し遂げることを“青春”と呼ぶのではなく、何かを成し遂げようと懸命に駆け抜けたその横顔に“青春”の二文字は映し出されるのだと。勝つことだけが全てじゃない。成功することだけが正解じゃない。


それこそ、大きな意味では決して主人公になれなかった彼女たちがこんなにも輝いて見えるのはだからこそなのでしょう。二人が抱き合ったのだって決して慰め合いなんかじゃない。その小さな体で“夢”に手を伸ばし続けた一人の少女に対する、あれは労いに他ならないのです。そして、それはこの挿話そのものが彼女たちモナカに向け贈られた救済のためのボーナストラックであったように。この作品には“夢”のため全力で駆ける少年少女たちの背をしっかりと支えるための熱がたくさん込められているはずなんです。

新たな“夢”を見つけ駆け出した葉月の表情をあんなにもハツラツと捉えることが出来たのも、そんな彼女に寄せられた期待をその背中に映し出すことが出来たのも、ようはそうした本作の方向性の賜物に他ならないのでしょう。彼女たちが前に進むことを諦めないのなら、その姿をどこまでも美しく捉えることも厭わないとする、そんな物語と映像の関係性。


夢を叶えた者たちへはファンファーレを。夢なかばで敗れた者たちへはアンセムを。そして、さらなる飛翔のため全力で邁進する若者に向け奏でられたアンサンブル。それが『響け!ユーフォニアム』という作品の本質であり、この作品が一番伝えようとした「青春を謳歌することの尊さ」に他ならないのだと思います。


全力疾走する葉月に追い縋るようフォローし続けたカメラワークからは、それこそ青春の輝きを一瞬たりとも逃さないとする作品の意地を垣間見たようで観ていて熱く込み上げてくるものがありましたし、何より彼女の口から「また選び直せたとしても、私はまた吹奏楽部に入りたい」という言葉を聞けたことは感慨深く、本当に嬉しかったです。新たな一歩に反射する少女の成長の記録、『響け』と託された願いの片鱗は、この遠く離れた番外編の地でもしっかりと響き渡り、彼女たちの懸命な姿をしっかりと映し込んでくれました。出会いだけが人生じゃない。成し遂げることだけが青春じゃない。それでも、もしその全てを糧として前を見据えることが出来るなら。そんな言葉をもって、この記事を締め括らせて頂こうかなと思います。本当に素晴らしい番外編でした。



追伸。「格好良い」 からと入部した吹奏楽。恋をして変わったあなたは本当に格好良くなったと思います。