『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』10話の演出について

この作品においては通底して描かれてきた "家族観"。それは今回のエピソードでも変わらず示されており、どちらかと言えばフラットな画面で構成されたAパート、Bパートの冒頭でもそれは強く感じることができました。彼女たちを一つの画面に収める巧みなレイアウト、そこから醸しだされる雰囲気の温かさ。そういったカットが一つ一つ彼女たちの会話とともに紡がれていくのを観ていると、それだけで心が弾むような気持ちになり、「良いなあ」と強く思えてしまうのです。

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しかし、ライブの日が近づくとそれまでフラットだった画面は変化し、どこか感傷的な画面・ライティングで構成されていきます。そして映し出されたのはバルコニーに佇むククの姿。揺れるカーテンの狭間で立ち尽くす彼女をアズサとライカが見つめるという構図がとても情感溢れるものになっていました。ですが、そんな遠望の視線*1をとても自然に、スッと横に立つ "隣人の視線" に変えてしまえるのが、この作品の凄みなのだろうと思います。一人で大きな舞台に立つ不安に苛まれている彼女の心を、少しだけユーモアを織り混ぜながらほぐしていく。本作においてはこれまでもずっとそうであったように、その手つきはどこまでも優しく、温かいものでした。

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こういったカット、カメラワークも同様です。不安な表情のククを映しながら、スッとカメラが横に流れ背後のフラットルテが映る。そして焦点が変わる。それはまるでククのネガティブな心を横に立つ彼女が包み込むような質感すらあって、顔を上げ周りを見れば今はもう心強い仲間が彼女の傍に居ることを裏づけるような映像にすらなり得ていました。

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いつもの騒がしさ。ライカとフラットルテ、アズサの声が響く中で、それを見て笑うククの後ろ姿が描かれる。そして、つい先程まで独り佇んでいたククが今度は3人を見つめる側へと回っていく。それはアズサたちがククの後ろ姿を見つめていた時と大よそ同等の関係性をもって描かれた場面でもあったのでしょう。ククに対し心を配るよう送られていた視線が、今度はアズサたちに対しての穏やかな視線として送り返され、その中で互いが互いを想う感情が寡黙に、確実に描かれていく。こういった相互関係の描写が一つ一つ着実に積み重なっていくからこそ、その果てに最後はしっかりと向き合い言葉を交わすことへの説得力が生まれるのでしょうし、そういったコミュニケーションの結実を真正面のカットで締め括った意味は、本話における "向き合う" ことの主体性を踏まえてもとても大きいものであったと言えるはずです。

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また視線の置き方という点でみれば、ライブ開演前のカットはいずれも素晴らしく、前述したような夕景のシーンで描かれたことはその根幹にすら成り得ていました。ベルゼブブがやってきた後のカットなどは特にそうで、ククが現れるステージに対し大よそ対岸とも呼べる位置にアズサたちが居たことが、より "向き合う" 構造を意識させるレイアウトになっていて感傷を誘いました。それこそ背中越しに映るステージの姿は遠く、未だその全貌を見せてはいませんが*2、 "真正面に彼女たちが居る" ということをこのバックショットで描き裏づけてくれたからこそ、ククと正面から相対し続けてきたアズサたちとの関係性をより強くこのライブシーンへ重ねることが出来たのだと思います。

 

続け様に描かれる一人ひとりの姿は、さらに色濃くアズサたちの想いや視線の強さを訴えかける描写としても機能しており、そんな風に彼女たちの関係性とその強靭さを何度だって伝えようとしてくれるフィルムに、私はただただこの心を委ねる他ありませんでした。

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そして描かれるバックステージ。不安と期待と、心細さと信じるものと。大よそ言葉だけでは表すことの出来ない感情の鬩ぎ合いを、僅かな芝居の機微とカッティングスピードで滲むよう表層化してくれる手際が強く光ります。ライブ前の焦燥感まで取り込みながら、しかしその中枢には間違いなくククの想いの強さが在ることを描き示してくれる映像の運び。前述した一人ひとりの表情を映した流れのままこのシーンに入ったこともあり、まるでその手の上にはアズサたちから受け取ったものが乗っているような質感すら感じられました。

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それを裏づけるよう、ステージに立つククの目線に近いショットで描かれたこのカット。アズサたちの視線や想いの強さが幾度にわたり描かれたのなら、彼女の想いやその眼差しの強さもまた描く必要があると言わんばかりのPOV。信じた人が傍に居て、見守ってくれているというその事実だけで得られてしまう安心感。そんな感情の証左として上がる口角と、その機微を伝える繊細な表情芝居は何よりも雄弁でした。

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そして、ククの眼差しの強さがここでもスポットライトのフレアとともに描かれる。それに対し、一層その瞳を見開くアズサの芝居と視線。単純な切り返しのカッティングではありますが、これがまさしく前述してきたような視線と想いを乗せたカットそのものだったからこそ、このシーンにはとても大きな意味が生まれたのだと思います。もはや会話のようにしか見えないふたりのやり取り、言うなれば「ありがとう」という歌詞の一節に乗せ送られた視線が、ダイレクトなありのままの言葉として伝わった瞬間でもあるのです。

 

そしてそれは紛れもなく本作が描き続け、培ってきた "家族観" の延長線上にあるものでもあったのでしょう。相手の話を聞く、視線を向ける、向き合う、想いを伝えるーー。それはとても単純なことではあるけれど、きっと彼女たちにとってはなにより大切で、だからこそそれを描くために必要とされる表現をこの作品は徹底して映像で紡ぎ続け、私たちに提示してくれるのです。

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けれど、そんなアズサたちとククのやり取りも束の間に、フラットルテから観たククのステージにはまた違うものが見えていたようでした。それも、同じ吟遊詩人を愛する者としての複雑な心境というか。きっと彼女はステージで煌めくククの姿へ抱いた感動と同じくらい、スキファノイアとしては実らなかったその姿に言い知れぬ想いを抱いていたのだと思います。それはアズサの視点から見えるククのステージとはまた違う関係性の上に立つ、視点の在り方なのでしょう。

 

それこそ、見え方や見ている視点が違えば、その受け取り方に違いが生まれるのは当然で、いくら仲間や家族と言えど、各々が抱く感情やその風景が等しく同じものとして一致することはまずないはずです。だからこそ、それぞれを一人の人物として、その内に秘めるものを一つの感情として描いていくことが "人物を描写する" という点においてとても肝要になっていくのでしょうし、ここでフラットルテにスポットが当たったのはそういった作品の矜持をも含んでのことだったのだと思います。ククに対し、他の人たちとはまた違う寄り添い方をした存在だったからこその感情と視点。それをしっかりと提示できる物語の強み。

 

それこそライブシーン中盤で描かれた、多方向からのライトにより出来る幾つかの影は、そういった見え方・視点の違いや、ククが抱く想いの葛藤を暗に示していたようにも感じられて、なんだかグッと胸を絞めつけられました。

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また少し話は変わりますが、そんなフラットルテの特別な感情を強く後押ししていたこのアクションカットにはとても感動しました。打ち上げ会場が盛り上がりを見せる中、フラットルテが自身の想いをククへとぶつけていくシーンですが、ここの手ブレ感が本当に良いんです。

 

振るわれた手の後を追うようにつけPANしていくカメラワークもさることながら、熱い言葉をなげかけるフラットルテの震える心に同期させるよう、カメラもしっかりと揺らしていくその手つき。それこそ「(スキファノイアを)絶対に永久封印なんて馬鹿げたことを考えるんじゃないぞ!」という強く激しい言葉にどれだけククが救われたのかとか。そんなことを考えると、これはフラットルテの情動に寄せた演出であると同時に、ククから見た彼女の姿でもあったんじゃないか、なんて風にも思えたりするわけです。直後にククがフラットルテを見つめるカットが差し込まれたことから考えても、このカメラブレは激励するフラットルテを見て感じたククの心の揺れとしても描かれていたのかも知れないと。

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そして、さらにもう一つ。前述したものと同様、激しく叫ぶフラットルテの感情に合わせるようカメラブレがつけられたカットですが、ここの台詞。「このフラットルテだって間違って間違って間違えまくって!今、ここで生きているのだ」というその台詞の「今」という言葉からピタッとカメラブレが止まる演出が本当に素敵なんです。ここまで描かれてきたことを踏まえても、多くの感情にその身を左右されてきたであろうフラットルテですが、そんな彼女がようやく見つけることが出来た答え、居場所が一つ "ここにある" ということをカメラブレの停止で描く。それも、迷いや惑いから生じた心の揺れが今収まっているのは "アズサたちに出会えたから" なのだと、克明に示すように。

 

そのまま顔を上げた先にアズサたちがいるという流れでカットを繋げていたのも素晴らしく、逆に言えば視線を向ける/想いを伝える相手がいれば、その心はきっと揺らがずにすむ (カメラブレはしなくていい) ということが、このカメラワークの本懐だったのかも知れません。それこそ今思えばこのシーンで感動したことこそが、この作品に対し、視線を向けること、向き合うことへの誠実さを一番強く感じた瞬間だったようにも思います。

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そして、見つめ合うふたり。横構図によってより向き合うことを強調したその意味については、もはや言葉にするまでもないのでしょう。また、このカットは奇しくもあの日ククが一人バルコニーで佇んでいた時のものとほぼ同様のポジションカットでした。一人で居たはずの場面が二人になり、二人だからこそ視線を交わすことができるという、そんな確信に至るまでの時間経過を描き切ったフィルムの温かさ。短い間ではあったけど、そんな風に濃密な時間をククは過ごせたのだと思えることこそが、今回の話においてはとても大切だったのだろうと思います。

 

誰かに見つめてもらえているという安らぎと、見つめることが出来るという喜び。そういった関係性の上に繋がっていく個々人の感情を、どこまでもうまく救い上げてくれた挿話だったなと思います。最後は円満の象徴である満月を背に笑顔をみせる二人。このラストシーンを観終えた後に「まるで家族のようだ」 と思えたことが、今話における最大のハイライトでした。心に残る、強く好きだと信じられるエピソードに出会えたことに感謝を。本当にありがとうございました。

*1:遠くから探るように見つめる視線

*2:それはシーンのファーストカットで描かれたステージの描写にとっても同様

『小林さんちのメイドラゴンS』1話の演出、空の色について

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全体の演出について、というよりは個人的に気になったポイントについて。まずはトールとイルルのアクション終わり、夕景のシーンについてですが、時間経過をしっかりと描いた上でその変遷がトール自身の感傷性に触れていく流れがとても素敵でした。それに加え「街を守ることを忘れかけた」と自省する彼女の心に、正面から歩み寄る小林さんをしっかりと捉えるシーンの出だし、二人のあいだに距離感を感じさせないことを前提として据えるようなカット運びも素晴らしいです。相手の影へ踏み込むほどに近づく、それをしっかりと描くことが、言葉数が決して多くはなかったこのシーンにおいてとても肝要だったのだと思います。

 

木々で二人を挟み込むレイアウトなどは、イルルが登場した際に描かれた木の影による分断に対する対義的なモチーフにもなっていて、1期から育み続けてきた彼女たちの関係を有無を言わさず包み込むような質感すらありました。

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あちらこちらに視線を泳がせるトール。「街を守ることを忘れかけた」という自責の念がそうさせていたのは言うまでもありませんが、それでもやはり小林さんはただ一点、トールのことを見つめています。トールの表情を正面から捉え、より鮮明に彼女の内心を汲み取ろうとしてもいいような場面ですが、そうはせず小林さんの肩ナメで、二人が相対していることを強く意識させるよう描いていたのは、やはりどんなことがあろうとも一つ揺るぎないものを携えている彼女たちの関係性が前提にあるからなのでしょう。

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そして、言葉を濁すトールに対し言葉ではなく手を指し伸ばし、触れる小林さん。多くは語らずとも優しく撫でる手の芝居、その柔らかさが何よりも雄弁であり、このシーンにおいてはそれこそが戦い終えたトールに相対する小林さんの応えにすらなっていました。距離感を描かない、感じさせないカットの積み重ねのうえに、"距離" という質感すら伴わせない芝居を置く。演出として、物語として本当にとても芯が強いなと感じさせられます。最後はトールの主観で。「帰ろうか」の一言。ああ、この風景があるから私は戦える、諦めずにいられるんだと。そんなトールの心の声がしっかりと聞こえるような映像の繋ぎでした。

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また、個人的に強く印象に残ったのがこのカットでした。前述したカットと同じくトールの主観で描かれたカットですが、ここに強い引っ掛かりを覚えたのは背景の描き方に起因するところが大きかったように思います。もとは3Dで組んでおいたところに張り込みをしたよな立体的な背景で、特にパーキングの標識付近に寄って見てみると看板や装置が別離して描かれていることが分かります。簡潔に言うと "奥へとカメラが進んでいくカット(POV)なので、その動きに対し違和感の少ない描写にするのなら当然、建物や標識も位置関係が変わる" ということです。

 

それこそ、主観で小林さんの背を追うというそれだけでも十分意味性の強いカットではありますが、そこにこういった立体感のある背景を描くことでより前へ進んでいる/進んでいけるという実感を与えてくれる辺りは、本当にさすがの手際だなと思います。なにより、そういった入り組んだ背景による立体感、奥行きの明瞭さが、なかば主観視点の主たるトール自身の感情にもリンクしていくように感じられたことは私にとってとても大きいものでした。一度自信を失いかけたトールが、改めて小林さんへの感情を取り戻し、その想いの深さ(奥行き)を鮮明にさせた瞬間。「私はいくらでも頑張れる。小林さんの隣にいるためなら...」という台詞にもあるように、そういった感情へ強い実感を持たせてくれる印象的なカット*2だったなと思います。

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最後にとても良いな、と一番感動した描写について。これまで書いてきたシーンの締めにあたるカットですが、個人的にこの空へ向けたPANアップと空の色味には強く心を打たれました。なぜなら、こと『小林さんちのメイドラゴン』という作品において、この紫と橙色のグラデーションの空には大きな意味性があると思い続けていたからです。

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それを証明していたのが1期6話のこのシーン。群像的に人とドラゴンの関係性をそれぞれのかたちで描いていたのがこの回の素晴らしいところでもありますが、ある帰り道にて描かれたこのバックショットと空の色味は、間接的に二つの種族が緩やかに繋がっていく様を示すモチーフにも成り得ていました。人間とドラゴンは共存できるのかという漠然とした疑問の中で少しずつ手を取り合ってきた小林さんとトール。そこに明確な境界はないとする作品の根幹たる強さが、そのままマジックタイムによる夕焼けの色味としてこの空には示されていたと思うのです。

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そういった本作に寄せる思いがずっと心の奥深くに残っていたからこそ、今回の該当シーンでも同様のことを感じ、その空に同じ意味性を見てしまったというか。奇しくもシチュエーションは6話同様、小林さんの少し後ろをトールが歩む帰り道。合わせて二人の関係性の強さを裏づけるシーンでもありましたし、だからこそその締めに6話と同様の空を見せてくれたというのが強く私の琴線に触れました。

 

逆に言えば、その空からオーバーラップして映し出されたイルルが落下する空の色味がまだ赤味の強い空だったことには、前述してきたことと逆の意味性があるのかな、などとは考えます。まだ自身の種族が掲げてきた価値観が強く、電車内のシーンでも「お前を認められない」と小林さんに告げていたイルル。それでも、「認められない」ということは少なくとも小林さんを "意識していること" は間違いないわけで、だからこそあの空の色に若干の青味が差し込んでいたのは、彼女と出会ったことによって生まれ始めたイルルの不明瞭な感情の表れだったのかなとも感じています。

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またこれは余談ですが、先程挙げた『小林さんちのメイドラゴン』6話の演出を担当されたのは三好一郎さんです。三好さんと言えば中心となって参加された作品に『MUNTO』また他作品の演出回としては『AIR』11話などが挙げられます。そしてこれらの作品や話数に共通して言えることはやはり魅力的な色の空が描かれているということでした。特に『MUNTO』は人間と天上界の人々との関係性を描いた話ということもあり、『小林さんちのメイドラゴン』とは物語的な親和性も高く、該当の色味の空に関しては同じような意図があったのではないかと感じています*3。加えて『AIR』11話の空の色に関しては、その回が収録されている『AIR Vol.6』のコメンタリーにて石原さんがこうも語っています。

 

「まあ夕方の色って言われれば1色や2色ぐらいしかないんですよ、せいぜい。でも今回、背景とか色を決める打ち合わせの時に演出の三好が「色を割ってください」って言ったんです。例えば黄色っぽい、赤っぽい夕方からだんだん紫になっていってますよね。その紫になっていく、何パターンかの間を徐々に、夕焼けが暮れていく感じに時間が進むに従って、色を変えてくださいって。なんていう無茶な要求をさらっとあの人、温和な顔をして言うわけですよ。ひどい人ですよ。笑」


もちろん、三好さんがどういった意図をもって空の色を指定したのかは定かではありません。『AIR』11話やその他の作品において描かれた空に、同様の意図が込められていたわけでもないでしょう。けれど、三好さんが "空の色" というものにも拘りを持ち映像と向き合っていたことは、上記の言葉や氏が手掛けられてきた映像を観ても分かるのではないかと思います*4。だからこそ、今回の『小林さんちのメイドラゴンS』にて、そんな三好さんの逸話を過去に話してくださった石原さんが "ああいった空" を描いてくれたことがなんだか嬉しかったというか。もう少し踏み込んで言うのなら、あの空を観て、1期6話のあの回を重ね、三好さんの演出を思い返せたことがとても嬉しかったなと、そんな風に思えたエピソードでもありました。

*1:サムネ画像参考:

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*2:背景美術の立体感

*3:空の色、そのグラデーションにより混じり合う世界を描いている

*4:その他にも『響け!ユーフォニアム』や『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』でも、色味は違うが印象的な空を描いている

『漁港の肉子ちゃん』の芝居・身体性について

冒頭で描かれた肉子ちゃん、波乱万丈の半生。そういった物語とは打って変わり、本編で描かれたのは徹底した生活風景とその中で巻き起こる感情の起伏、そして関係の変化でした。特に多かったのは船内での母子生活。寝転んだり、料理をしたり、食べたり、トイレに行ったりと、それこそ中盤で語られたようなとても普遍的な、けれどそれこそが幸福であるような生活風景を描くことに、本作はとても拘っていたように思います。それは肉子ちゃんの少し大袈裟で、大きな弧を描くよう動く一つ一つの芝居からも顕著に表れていました。ある意味エフェクトっぽく、ある意味で人間臭い。パート毎で描かれたアニメーターの方々の特色はあるにせよ、基本的にはそういった軸を持って彼女の芝居は描かれていたはずです。リアル系の芝居というよりはケレン味のあるデフォルメの効いたフォルムと動き。ちょっと下品に映る瞬間もありますが、でも生活って本来そういうものだよねと思えるような、だからこそ愛せるような。そんな "生き生きとした瞬間の連続" が本作の根幹を成していたと言っても過言ではないはずです。

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そして、その延長上に描かれたものこそが娘である喜久子(キクリン)の身体性でした。肉子ちゃんとはまた別ベクトルの、けれどこちらも確かに "生" をより強く実感させてくれる芝居。運動が得意なことが伺えることまで含め、そうした彼女の溌溂(はつらつ)とした動きを描くことにも本作は拘っており、その中でも彼女が走るシーンというのは特に印象的でした。スラッと伸びる四肢が力強く伸び、前へ前へと進む姿にはそれだけで魅力的に映る力強さが宿っていて、この作品が主題に据えていたであろう "生きる/生きている" という実感がより鮮明に感じ取れる瞬間にさえ成り得ていました。

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このシーンなども同様でした。二宮の通う施設からマリアの自宅へと駆けていくシーンだったと思いますが、彼女が抱える感情の発露を促すような、時に非情なこの世界の中で必死にもがこうと懸命に走るキクリンの姿、絵の力にとても感動させられたのを今もハッキリと覚えています。

 

もちろん本作の中で走るシーンが多かったのかと言えば決してそうではありませんが、例えば運動会の借り物競争で肉子ちゃんが奮闘するシーンが本作におけるハイライトの一つになっていたこともようは同じ理由なのだと思います。作画的な風合いは違えど、そこに宿っていたもの、走るという行為にはやはり "懸命に生きる" という情念がふんだんに込められていて、その背景には彼女たちの境遇や経緯(いきさつ)がまるで走馬灯のように流れていくのです。そんな風に、この作品は "人が営みのため動く瞬間" へとスポットライトをあて、その風景をより克明に強調してくれていました。そしてそれは前述してきたような生活描写においても同様であり、この物語はそんな芝居作画とそこから育まれる身体性によって "生の実感" を強く描き出そうとしていたのだと思います。

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それを一番強く感じ取れたのが終盤の回想シーンでした。なんてことはない、まだキクリンが幼かった頃の母子のやり取り。仕事で疲れ果てた母親を元気いっぱいに応援する娘の姿が映し出されるという、物語的にもとても感動できるシーンではありますが、特に私が感動してしまったのはその描写をこうしたアニメーションで描き切っていたことでした。なぜなら、このシーンそのものが前述してきたような芝居とその身体性によってより強いドラマを生み出していたからです。

 

親友が置いていった大切なものを身を粉にして守ろうとした肉子ちゃん。その手のひらに残ったものがこの光景であり、元気に動き回るキクリンの姿なんだと訴える物語の帰結。些細な芝居が、動きが、その子供らしいまばらな挙動の全てがそういった背景の流れを重厚に支えてくれている。つまり、ここで描かれた幼少期のキクリンの芝居、身体性が肉子ちゃんたちのこれまでの人生そのものを強く肯定してくれるのです。そしてそれは、時に豊かな芝居作画が感情や物語に説得力を与えることへの証左にすら成り得ていたのだと思います。

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それは本作で度々見受けられた、肉子ちゃんの表情が一瞬リアル調になるというギミックとも同じ輪郭をもって語ることの出来るものでした。冒頭でも書いたように彼女の芝居というのは基本的にデフォルメされていて、時にコミカルだったり、コメディに寄っていたりとその芝居づけの豊富さも多岐に渡っていたわけです。それでも彼女が一番大切にしているもの、心の奥にある感情が滲みだす瞬間はこういったとても繊細な芝居で描かれる。それはやはり、その時彼女が抱いていた感情に説得力を出すためであり、今あるこの瞬間、生活風景そのものを掛け替えのないものだと示すための描き方でもあったはずです。だからこそ、この作品が肉子ちゃんのああいった表情*2で締め括られる意味というのはとても大きく、本作がどこまでも今ある生活風景というものを大切に扱い、その風景をしっかりと描くために芝居というものに拘りを持っていたかが分かる幕切れになっていたと思います。

 

 徹底した生活芝居、丁寧で繊細、時に躍動感ある作画によって強固な軸 (主題) をより動じないものへと昇華させた今回の作品。私にとって、まさにアニメーションで感動するという原体験を呼び覚ましてくれるような映画でした。

*1:サムネ参考:

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*2:リアル調で描かれた肉子ちゃんの「おめでとう」という台詞、その芝居