『スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました』6話の芝居、家族について

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全編に渡り芝居づけや表情などの作画、演出が素晴らしかった本話。観ていて本当に良いなと思えるシーン・カットばかりだったのですが、その中でも特に気になったものについてふれていきます。まずはこのカット。最初の手の芝居がとても好きで、何度も繰り返し観てしまいました。虚空を掴む芝居。アズサにとってロザリーの服が実在感あるもののように見えていることが伝わってくる芝居で、最後に軽く手の力が緩むというのが、タイミングの良さも含めまた一段と芝居の豊かさを彩っていたと思います。

 

そしてそれを受けてのロザリーの動き。若干オーバーアクション気味の芝居が良く、手を開き切るまでのタメが効いていてとても気持ちいいです。レイアウト的にも彼女の周囲に空間があることが、より一層大きめの動きを引き立ててくれていて視覚的な気持ちよさに繋がっていると思います。くわえて良いなあと思ったのはその後、3人が互いに目配せをしていく場面。互いが互いを意識していて、そこには意志のやり取りがあると強く思える芝居づけ。些細ではありますが、物語レベル、シーン単位としても彼女たちがそこで生きている (感情がそこに在る) ということをそれとなく実感させてくれる芝居で、素敵でした。

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そして「みんなと一緒にドレス着て式典に出たいよね」と問われた際の、ロザリーの反応。隠していた気持ちが零れ落ちるような二度の瞬き、もじもじした指の芝居ですが、少しやさぐれ気味だった彼女の中に少女性が垣間見える瞬間がとても良いなと感じます。そしてやっぱり視線が描かれているというか、一度瞬きした後もアズサに視線をやり、そしてもう一度瞬きをして恥ずかしそうに斜め下を見る、というこの視線の流れ、描き方が本当に素晴らしいです。彼女が抱く気持ちへの恥ずかしさと同時に、優しい言葉をかけてくれたアズサへの特別な感情を一瞬でもこうして見せてくれることに、彼女たちの強い絆を感じ取れるっていうのはやはりあるのでしょう。

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ロザリー周りの芝居ではもう一つ。夜景、星空を見上げる芝居づけと、カメラワーク。その中に哀愁というか、とてもエモーショナルな感情が込められているように思えるのが本当に素敵でした。幽霊となり、今はもう "生きてはいない" という事実が現前と横たわる中で、死後である今の方が彼女にとっては幸福であるように描かれてきたストーリーライン。けれど、その中にあってやはり彼女にも思うことはあるのでしょうし、素直にこの現状すべてを受け止め切れているかと言えば、決してそうではないと思うんです。でもだからこそ、そうした現在の境遇をどこか客観的にみるというか。"今の私" を少し俯瞰して見る、そのために遠くへ引いていく、トラックバックしていくカメラワークにグッと胸を掴まれたというか。

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それこそシーン序盤に描かれたバックショットの意味とかはやはり考えますよね。届かないものがどうしたって彼女にはあるのかなとか、そんな風に想い巡らしてしまうカット単位の感傷性とか。手のひらが陰になり彼女の表情にかかる、というのもすごく内省的だなって思うんです。そして届かないものに手を伸ばすことの意義ってなんなんだろうって。それこそ、彼女自身が今の状況に少し不思議な感じを抱いているということを描くためのシーンではあると思うんですが、やっぱりそういったロザリーの背景にある物語のことも合わせて、その心根を深く考えてしまう。

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でも横を見ればそういった気持ちはどこかへスッと消えていってしまうくらい、今ここには温かい人たちが居るというのがこの作品の大きなテーマなのだとも思います。人それぞれ生まれも境遇も違って、感情も違う。それこそビジュアル的にみればハルカラの足は地についていて影も出来るけど、ロザリーは決してそうじゃない。でも "彼女たち" はロザリーのことを家族と言ってくれる。向き合ってくれる。そんな関係性を静かに後押しするためのこのシーンだったんじゃないかって。色々考えてはしまうけど、でも彼女には "今" があるから、だからきっとずっと大丈夫。そんな祈りにも似た感情が多くの思考を洗い流してくれるようで感動しました。特に足元のローショットとかは、そういった温かさ、向き合うということを強く感じさせてくれるカットだったと思います。

 

最後はハルカラの言葉を受け、微笑むロザリー。揺れ靡く髪の質感はまるで、彼女の心が少しだけそよ風に撫でられたような。そんな風に思える素敵な靡き作画でしたし、シーンのラストカットに円満の象徴でもある満月を据える、というのがまた温かい世界観を描き続けた本作らしく素敵だなと感じました。

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そんな風に、やっぱりこの作品の醍醐味って家族感とかその中で生じる独特な空気、温かさなんじゃないかっていうのはずっと思い続けていているところで、今回はそれが豊かな芝居作画・演出によってより強く感じ取れたというのが個人的に凄く大きかったんだなとは思いました。それはこういう芝居一つとってもそうです。家族の団欒風景を切り取ったようなバックショット、ライティングや撮影の質感が本当に素晴らしいシーンですが、そんな中、まるで母親が目を離した隙にどこかへ行ってしまう子供のような仕草を見せるファルファとシャルシャの動き。今ではこれが彼女たちの日常の風景ではあるのでしょうけど、それを敢えて描いてくれる、垣間見せてくれることにはやはり喜びを感じずにはいられないのです。

 

それこそ、この世界に生きる彼女たちの日常風景ってこのフレームに収まるほど小さいものでは本来ないはずですよね。このフレームから覗けるよりもっと大きい世界が実際には広がっていて、そこで登場人物たちは暮らして、生活している。なにより、家族として多くの人が一つの場所で暮らしているのだから、その人数が多ければ多いほどそれぞれの動きを画面に収め切ることってかなり難しく、稀なことなのだと思います*1。でもだからこそ、こうしてフレームの外へ向けた芝居を描いてくれるっていうのが本当に良いなというか。会話を交わすアズサとベルゼブブ、その二人の周囲には今もなお他の子たちが居て動き回り、暮らしているんだという風に意識を向けさせてくれるから。画面としてフレーミングされたものの外にもある生活風景と、家族感。それをここまで想像させてくれたことがとても嬉しいんです。

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特にこのカットは今話で一番好きだったカットですが、前述したように画面の中だけではないフレーム外の生活感と家族らしさを想起させてくれる素晴らしい描写でした。ファルファがベッドの周りを回り込んでくるのが分かる導線の描き方とか、上がる足が手前に向けて空間を感じさせてくれたりとか。上手から注ぐ自然光の塩梅、撮影の素晴らしさまで含め、その全てが空間の広がりを感じさせてくれるのが堪らなく良いんです。

 

もちろんファルファとシャルシャの子供らしい動き、3人それぞれに一律ではない芝居が描かれているからこそ、より実在感があって、そんなユルっとした空気と飾らなさが彼女たちはもう既に家族であることを裏づけてくれるのも素敵で。だからこういうカットを観るとどうしても思ってしまうんですよね。作画って動きの快楽としての魅力もたくさんありますけど、やっぱり自分が好きなのはそこから感情や関係、物語がより強く感じ取れた瞬間なんだなと。そしてそれがこの作品にとっては彼女たちの生活感だったり、家族感でもあるのでしょうし、それは今話に限らずずっとこの作品が描き続けてきたことではあるのですが、特にこの6話ではその描き方が素晴らしかったというのが今強く感じているところです。

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とは言いつつ、フレームの中に彼女たちをしっかり収めているカットも要所でしっかり描かれていて、その辺りにもこの作品が大切にしているであろう "家族" という一つの大きな軸を実感させられました。レイアウトとしての収まりの良さもあり、どこまでも家族を描くことに拘った見せ方。それこそ、思い返せばこの家族の家長でもあるアズサって過労が原因で、っていう前提があったことなども思い出したりして、だからこそこういった一つ一つのカットからもそんな彼女の「もう自分と同じ境遇には絶対にさせない」っていう想いを感じ取れるのはこの作品の素敵なところだなと感じたりもしました。

 

他にも緩くデフォルメされた絵の良さとか、動きの楽しさとか。物語的な楽しさや喜びも十二分あり、本当に終始素晴らしい挿話だったなと思います。どこまでも彼女たちの家族感を見守っていたいと今まで以上に思わせてくれたことには感謝しかありません。本当に素晴らしかったです。

*1:それは作画的な労力を考えても

最近観たアニメの気になったこととか5

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『Vivy -Fluorite Eye’s Song-』1話。AIであるヴィヴィと人との違いを感じさせない芝居。序盤のシーンではありますが、ここでこの芝居が描かれる意味って自分の中では凄く大きかったなと思います。人の感情と呼べるものに対しまだ鈍い反応をみせる彼女ですが、友人とも呼べる距離感のモモカとそれほど芝居の質感が変わらないということが、ヴィヴィ自身の人間然とした在り方を強く感じさせてくれるようでした。モモカは子供らしい軽さと大雑把さを生かした座り込み。逆にヴィヴィは少しお姉さんらしさがあって、しおらしい動き。スカートを抑える所作だったり、ちょっとした脚の動きにも実在感と芝居的な良さがあって好きだなと。

 

くわえて、この距離感の定点カット。一つの画面の中に二人の芝居を順序よく描くことでさらに二人の関係性、近さを感じられるのも良いです。こういうアングルで生活芝居を撮るということ自体が個人的に好きというのももちろんありますが、二人の時間を一番フラットに切り取れていたのはやはりこのカットなんじゃないかなと思いました。それこそ序盤にこういったシーン/カットを描くことでヴィヴィの人間らしさに基準となる線を引いた感じもして、より印象に残ったなと。この作品については今のところは2話まで観ていますが、そういった描写の一つ一つがヴィヴィにとっては物語そのものになっていくようにも思えて、特にこの作品を観ていて好きだなと感じるポイントの一つでもありました。

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同上2話。未来の凄惨な映像を見せられた後に映るヴィヴィの瞳のアップショットと、目の前でそれとほぼ変わらない出来事が起こった際の彼女の瞳の描写。これがこの話数のファーストカットとラストカットとして描かれていたことも凄まじいですが、やはりそこにはそれ相応の意味があったのだろうと思います。未来に生きる人々の祈りの火と、目の前で起きた大爆発、そして大切な人との別れ。それぞれがその瞳に映り込む中で、二つの描写に差異があるとすれば、それはおそらく感情と呼べるものの強さに他ならないのでしょう。

 

それこそ、光源の種類、強さ、色味、環境など多くの要素で画面の質感とは変化していくものですが、それだけではない "何か" があると感じられる絵としての強度。ハイライトの濃さ、雨の艶、掠り傷が多く描き込まれていたことまで含め、このカットにおいてはそういった情報量の全てがヴィヴィにとっての感情なんだとまるで訴えているようでした。それは前述してきたような、彼女の人間然とした芝居ともきっと同じ輪郭をもって語ることの出来る繊細な "彼女を描くための" 描写そのものだったはずです。なによりそういった描写があるからこそ、信頼できるというか。ああ、この作品はこの娘の気持ちにこんなに寄ってくれるんだっていう。だから自分も前のめりに、襟を正して観ようと思えるというか。大袈裟なことを言ってしまえば、そういう瞬間のためにアニメを観ていると言っても過言ではないのかも知れません。

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『86―エイティシックス―』3話。2度にわたる長回しカットの果てに描かれたシーン、演出。最初の長回しと、後に描かれた長回しとの間で巻き起こるドラマによってそれぞれの描写の意味が180度変わってしまうというのを、落ちる*2はずの涙が駆け上がることで表現していたように感じました。逆流というか。そうじゃ "なかった" んだっていう、気づきと感情の反転。正位置だったカットが横たわっていくのとかも。それをマッチカット的に瓶のハイライトへ納めてしまうスマートさと強烈さまで含め、このシーン締めは本当に凄まじかったなと思います。あとは瓶にもなにか意味があるのかなとは少し考えましたが、今のところはあまり繋がりが見えないので、それはそれという感じです。

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憂国のモリアーティ』4話。グレープフルーツを切り、絞るという流れ作業の芝居。力の入れ加減、体重の乗り、丁寧に一つ一つの作業をこなしていることが直に伝わってくるような感触があって、芝居作画そのものがもう凄く良いなと思うんですが、そういった描写のすべてが直接的に殺人に対する実感へと繋がっていくという演出に、とても驚かされました。グレープフルーツジュースが劇薬になることを承知しているからこその、夫婦にとっての敵 (かたき) を殺めるためのものであるからこその、丁寧さ。二人の作業を一つのカットに収め、わざわざ2カット目のようなカットを入れるのも、これが夫婦による共同殺人であることをより強調するためなのでしょう。

 

命のやり取りに対する実感と"確実に"という執念、それが丁寧な芝居を描く理由にもなるのだから、面白いし、強烈だなと。作画的な丁寧さと、この二人にとっての丁寧さの同調。掛け値なしに、素晴らしいです。

*1:サムネ参考:

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*2:カメラ向き的には横に動く

最近観たアニメの気になったこととか4

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『やくならマグカップも』3話。全体的にシリアスな空気感の中で話が進んでいく回でしたが、こういったロングショットで登場人物たちの中に流れている時間を共有させてくれたのが凄く良いな、と感じました。奥から手前に歩いてくる二人、他愛もない会話。緊張感のある話の中だからこそ、このカットがより印象づく、みたいな。

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シリアスなパートでもロングショットが挟まれます。カメラ位置が低めなのも相まってか、ひっそりと彼女たちのやり取りを覗くような質感がこの回にはありました。ライティングも印象的で、逆光も多かったり。けれど、その中で浮かび上がる色合いの濃さが、彼女たちが抱いていた本音を浮き彫りにしてくれるようで、観ていてとてもドキドキさせられました。物凄く丁寧で、感情の一つ一つを拾い上げてくれるような台詞回しを後押しするよう構成される映像。繰り返し描かれる同ポのカット、トンボのモチーフなどが彼女たちのほんの少しの変化を彩ってくれていたのも素敵でした。

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『やくならマグカップも』4話。お茶漬けを掻き込む芝居。熱くて茶碗を持つ手と指がまばらに動いたり、掻き込む際の手首より上の動きがより一層、美味しそうに食べる様子を描いてくれていたのが良いなあと。それこそ美味しそうに食べている父、という一つの描写が今回の話の中では一つ軸になっている感じもあったので、姫乃自身の心象としてもここでこういう芝居が描かれた意味合いはとても大きく感じられたのがなんだか嬉しかったです。

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スーパーカブ』4話。感情的な芝居があまり目立たない小熊でしたが、アルバイトの日々を重ねていくうちに少しずつ相手側の先生とも打ち解けていく様子が描かれていたのが凄く良いなと感じました。ダイジェストで描かれたシーンではありましたけど、最初は先生が資料のチェックをしている間、ずっと横で立ち尽くしていた小熊が校舎の外で待つようになっていたり。きっと「外で待っていてもいいですか?」とか聞いたのかなとか、その時も少し子供っぽく足をぱたぱたさせていたりとか。次第に笑顔がふえていったり、台詞や明確な描写がなくてもその間に起きていたであろう会話や感情が想起できるシーンであったことがとても素敵だなと思いました。

 

スーパーカブに出会ってから彼女を取り巻く環境はどんどん変化しているように見えますが、そうして描かれた4話までの時間の流れを圧縮して、再演していたのがこのシーンでもあったのかなとも感じます。

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『幼なじみが絶対に負けないラブコメ』3話。本当は末晴のことが好きなのに、それでもこれは彼のためだと別れの切っ掛けを作り出した黒羽の感情が滲み出るような芝居。握る手の力み、重たく踏み出す一歩目の芝居。重心がまだ後ろに残るように爪先が先に浮く瞬間がとても感傷的で愛おしく、切なかったです。表情の良さ、ここはスローで。情感たっぷりに、後ろ髪が引かれるように、それを切り裂く手のアクション感まで含めて。もう本当に堪らないな、という気持ちにさせられます。

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同上シーンのラスト。振り絞って出した末晴への最後のエール。「私、みてるから」の力強い言葉に合わせるようハッキリと描かれた口元の芝居、その前に一度大きく描かれた瞬き、そのタイミングまで含めてとても感情的です。瞬きの芝居について思うことは以前の記事でも一度書きましたが、自分の中にあるそういった芝居の大切さを再度確かめられたような気がします。

 

 渡り廊下のシーンであったことも含め影中作画で描かれていたのもまた、エモーショナルな質感に拍車をかけていたと思います。前述した『やくならマグカップも』 3話とも同様、時に影とは私たちの心奥底にある感情にまでその手を差し伸べてくれるのだから面白いですよね。その他にもライティングが光るシーンや階段を駆使した演出、素敵な芝居が多く、話数全体でみても本当に素晴らしかったです。余談ですが、文化祭でバンドのライブシーンと言えば思い出してしまうのは『涼宮ハルヒの憂鬱』26話「ライブアライブ」。オマージュなのかなあと思えたことまで含め印象に残る回でした。