最近観たアニメの気になったこととか11

カッコウの許嫁』3話。シーン展開というか、劇伴のつけ方やそれ以前の会話、カットの構成があってのものではあるんですが、やはりここの芝居は本当に素晴らしかったなと思います。劇伴の抑揚に合わせるよう差し込まれるノブを捻るカット、キュッというSEと共にこのカットから作画のテイストが一気に変わるのが求心力の源になっていました。バストショット、寄りなどが多いカット構成からまず一つ、リアル調な手の芝居に切り替わることでシーンの雰囲気が変わっていく。順にアクション、振り向き際の表情、エフェクトの煌びやかさと少しずつレイヤーが重ねられ彩られていく。その全てが今この瞬間を楽しんでいる二人の感情の流れに沿っていたことが、とても美しいなと思えました。最後には水を掛け合う二人を引きで映していたのも素敵で、全体像を映すことでより芝居が映え、年相応の無邪気さや関係性の変化が感じられます。芝居作画そのものも素晴らしく、この芝居設計を描き切る巧さが彼ら・彼女たちの "生" にそのまま直結しているようだと思えるこの瞬間の感動はいつ味わっても堪らないものがあります。

1話で語られた「自然体の方が良い」という言葉を裏づけるように、とても自然で柔らかい表情が描かれていたのも良かったです。複雑に絡み合った関係の中で、そういったことは一旦置いておき笑い合えることが各々の心情に寄与していくのだろうなとか。そんなことを思えたシーンでもありました。

SPY×FAMILY』3話。普遍的で温かみのある家族観。それを象徴するような、あくまでも日常を描くための芝居作画に心を打たれました。「あなたたち、とっても素敵な家族ね」という老婆の言葉を映像から体現していく姿勢。描かれているものの中には特異的なものは何一つなく、机にカップを置く、椅子に座るというただそれだけの行為ではあるのですが、そんな "ただそれだけの行為" がこの一家にとってはどれだけ大切なのかということがとても身に染みた瞬間です。アーニャの子供らしさが滲み出るような座る芝居、その後にヨルが座り、横目で母親らしい視線を向ける。それこそロイドやヨルにはまだ "本物の家族" という価値観はないのかも知れませんが、こういった描写というか、日常の積み重ねがいずれはそういった価値観を形成していくんじゃないかなんて、そんな未来を考えたくなる趣がこのシーンには込められていたような気がしています。

SPY×FAMILY』6話。「ダメな母親だ」と嘆くヨルに対してのアーニャの行為。頭を撫でる指の速度、緩急、子供らしい手のシルエット、なにより指の間の髪に膨れ上がる様な質感が伴われることで、より撫でるという行為の実感や温かみが感じられたことが本当に素晴らしかったです。親指が触れている辺りの髪に実線が出来るのとかも同様です。手をしっかり充てているという実感が、より感情の流れやその機微に作用していく。そういう瞬間にはやはりどうしたって感動が生まれるんだろうなと思います。言葉数が少なかったり、うまく言葉を伝えられないからこそ、その一挙手一投足がより雄弁になり得る子供の芝居。特にアーニャの場合はそうなのだろうなと思います。

あとは視線とか、そういうのも同じなんだろうなと。言葉ではなく芝居で、言葉だけではなく視線で。その大きな瞳でなにを見てなにを彼女は感じているのだろうかと。そういった想いを逡巡させてくれる描き方がこの物語の骨格、しいてはアーニャ自身の人格を形成してくれているような気さえ今はしていますし、私にとってはそれが本作を観るうえでの醍醐味になっていたりもしますね。

『であいもん』2話、アニメにおけるバックショットとその先に視るものについて

両場面とも2話終盤で描かれたバックショットでしたが、各々が今話の行方を見守る様な質感を持っており、とても感動させられました。まず左のカットについてですが、和 (なごむ) と一果の馴れ初め、関係性を踏まえればとても得心のいくカットだと感じられます。まだ距離感がある二人だからこそ寄り添っては歩かないし、歩けない。それでもここまで描かれてきた彼の姿勢や性格に少なからず温かさを見つけていたからこそ、一果もさほど距離を取らなかったのでしょう。付かず離れず、そんな二人の関係性をビジュアライズした距離感。特に和菓子の手売りを共にしたことや美弦の進路に関する一件で、一果が彼に対する印象を改めたことが分かるカットになっていたのはなんだか良いなと思わされた一因でした。逆に右のカット、一果と美弦が一緒に登校するシーンで描かれたカットでは、二人の仲睦まじさを感じさせる距離感でしっかりとその関係性が描かれています。距離が近ければ仲が良い、というのは必ずしもイコールで結ばれるものではないと思いますが、それでも自身の問題をひとまず片づけた美弦と、それを知り見守っていた一果の関係が改めてビジュアル的に示されたのはやはり素敵でした。それこそ時系列的には絵としての印象度が強い和と一果のカットを受けて、一果と美弦のカットがラストカットとして描かれていたのでより二つのカットを重ねて観ることが出来ましたし、それ故の感動というものも多分にあったのだろうと思います。

 

けれど、そんな二つのカットにも共通したテーマ性のようなものがあります。それは広角カットから強調し映し出される消失点 (とその構図) によって、各々が歩むであろう道/未来というものを強く意識させられることです。特に一果と和のカットではそれが顕著でした。たとえ今は二人の間に少し距離があったとしても、これから続く長い道のりの中でその心は少しずつ寄り添っていくのだろうと思えてしまうというか。消失点をまだ見ぬ未来と見立てればそこに向かって歩く二人は、きっとこの先も大丈夫なんだろうと自然と思えてくること*1が本当に素晴らしいのです。それは一果と美弦のカットでも同様です。消失点、遠くへと続く道をより見やすくするために真後ろのバックショットからではなく、カメラ位置を少しずらし "その道の先" をしっかりと映していたのも印象に残ります。それこそこういうカットって本当にバックショットの醍醐味というか、表情が見えない構図である分、それ以外の要素が物語的に雄弁であったり、言葉では言い合わらせられない感情を代弁してくれている感じがして、本当に好きだなと思わされます。

 

くわえて、二人が見渡す景色の向こうに空が広がるという景観の見せ方もとても素晴らしく、それはまるで二人が歩んでいく道とその先の物語を世界が祝福しているようにも思えました。

またこの話数を観て、自分の中に深く残っているバックショットってなんだろうと考えた時に、色々浮かんできたものがあったのでそれについても少し書いていこうと思います。まずは『宇宙よりも遠い場所』5話。キマリが南極へと向かう日の朝、めぐっちゃんが彼女に絶交を言い渡しに来るというシチュエーションでしたが、めぐっちゃんが抱いていた感情も全て受け止めたうえでキマリが「絶交無効」と言い渡す、そんな流れの直後の場面です。

 

前述してきたことを踏まえればまさしく消失点 (見えないほど遠く) へとキマリが駆けていくバックショットが描かれます。キマリにとっては ”ここではないどこか、遠い場所" へ向かうという意思と意味がしっかりとこのカットに込められていたのでしょう。しかし、以降のカットからこのバックショットって実はめぐっちゃんの主観に近いカットでもあったのかも知れないと分かると、そこには新たな質感が伴われていくことになります。それはキマリが遠くへと行ってしまうというめぐっちゃんの感覚だったり、その背を追いかけ、向こう側へと向かう必要があるのは私も同じなんだという彼女自身の強い想いでもあったのでしょう。言ってしまえば彼女たちは "向こう側" を観ているんですよね。まだ見ぬ虚空に浮かぶ目標とか、夢とか、踏み出すための切っ掛けとか。具体的なことを言葉で言い表すのが難しいのですが、でもしっかりと此処に在るそういうあやふやな感情をグッと私たち受け手にも知らせてくれる。そういう物語的な強度がやはりバックショット*2にはあるんだと思わされるんです。

のんのんびより のんすとっぷ』10話、『ろんぐらいだぁす!』3話。遠い場所へと帰っていく友人を見送るれんげと、未来への展望に心躍る亜美、それぞれの後ろ姿。各々シチュエーションや抱える感情は違いますが、遠くへと想い馳せその虚空に彼女たちの感情が映し出されるという点ではやはり同じだと思います。『ろんぐらいだぁす!』に関して言えばはドリーズーム効果がつけられていたり、前術したような消失点を意識させられる構図・レンズ感にはなっていませんが、そこに携えられている意味性に関してはやはり同様のものを感じます。特にバックショットによって捉えられる空の感じ、そこにこれからの物語を夢想できる印象なんていうのは、もう私が敬愛するバックショットの素晴らしさそのものでしかありません。

新海誠監督作品でもバックショットは多く使われますが、印象的なのは『コスモナウト』と『ef-the latter tale.』のデモムービー。手の届かないもの、未来や過去に対して手を伸ばす意味性を説くのが氏が手掛ける作品に通底したテーマ性ではありますが、こういったバックショットやそこで描かれる彼女たちの視線というものはその意味性の代弁者足る強度を非常に強く携えているように思います。やはり向こう側を見ているんですよね。そして、そこに彼女たちの物語があって、感情がある。

響け!ユーフォニアム』5話、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』6話。ここでは物語の詳細を省きますが、いずれも登場人物たちが未来への予感や、そこへ向けた想いを虚空に滲ませていたカットです。明確に言葉にできるものはないけれど、それでも今この場所より向こう側へと馳せる想いは持ち合わせている。とてもあやふやなものではありますが、そのあやふやな輪郭こそがとても大切な物語の骨子となっていくのでしょう。そんな風に彼女/彼ら/また物語の代弁者となるのが時にバックショットの宿命なのかも知れないな、とか。今回の『であいもん』2話を観て改めて感じさせられたことでした。

*1:この風景(カット)を信頼してこの作品を見守りたいと強く思えること

*2:もちろん全てのバックショットにそれが当てはまるわけではありませんが

『明日ちゃんのセーラー服』1話の芝居、その視界に映るものについて

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本作の要ともなる存在、セーラー服。作品タイトルとしても使われるそれがどれほどの意味を帯びているのかということを知らしめていたのが本話において描かれた着替えのワンシーンでした。母親から手渡される制服に静かに伸ばされる手と、向けられる視線。大喜びするわけでもなく、無邪気に笑うわけでもない。そこにあるものがまるで神聖なものであるかのように、大きく見開かれ、きらきらと輝く瞳は彼女にとってそれがどれほど想い入れのある存在なのかということを強く裏づけていました。

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ともすれば淫靡さのまさる映像になってもおかしくないシーンですが、そういった前述足る映像の運びと感傷性を帯びたBGMも相まって、そうは感じさせない描写になっていたことがとても素敵でした。フェティシズムは残しながらも彼女の感情をどこまでも優先し描いていく映像美。吹き入れるなだらかな風の音、微かな衣擦れ、踏みしめる足音。そのすべてが彼女の内に灯る高揚感を表現してくれているようでした。体重がかかっていることが手に取るように分かる足元の芝居なども素晴らしく、軽くはない "重たさ" を感じる芝居だからこそ、より彼女の一挙手一投足に "いよいよだ" という心意気を感じてしまうのでしょう。

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ここの演出、芝居も素晴らしいです。わざわざマネキンからスカートを取るカットを入れることで、一つ一つの段階、その描写・瞬間こそが彼女にとっては掛け替えのないものになっていることを描いていく。それこそ "着替えを描く" ということだけに焦点をあてれば飛ばしても構わない描写だとは思いますが、それをアニメーションとして起こす際にカット数をふやしてまで入れる意味*1。それを本作はしっかりと携え、提示しているのでしょうし、そうやって明日小路という一人の少女の想いをどこまでも汲み上げていこうとするコンテワークにはやはり心酔してしまいます。瞬 (まばた) きに重たさを感じられる芝居のつけたも抜群で、スカートを手に取り心が動いている様をその挙動一つからさえ感じられることが、とても嬉しいです。

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揺れるプリーツのしなやかさ、端正な存在感。それを受け輝く瞳と回転するハイライト。微かに揺れるスカートの繊細な作画があるからこそ、後者のハイライトにより強く意味が帯びていくのだろうと思います。もちろん、このカット自体もフェティッシュさを感じられるものであることに間違いはありませんが、シーン全体やカットの繋ぎを見た時に主軸にあるものが鮮明として見えてくるのは、やはり今話の演出・その方向性が目指したところでもあるのでしょう。彼女の心をどこまでも優しく包み込むように。それをとても大切に、傷一つさえつけないように "見せる" 映像の手つきがとても素敵です。

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しなやかな髪の動きをスローでみせたり、セーラー服の主役足るスカーフを結ぶ手つきにしっかりとスポットを当てることも、全てそこに収束していくのだと思います。段階を踏むことで感情曲線をできるだけ緩やかに頂点まで運んでいく。良いなあと思いますよね。時間の流れとともに心が揺れ動いていく感じも、彼女のペースを崩さずにありのままを描いていく様子も。そのすべてを愛おしく感じられます。

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そして、おそらく本話では一番淫靡に映ったカット。しかし、彼女にとってはこの正装そのものが神聖なものであるのと同じように、本作においては今の彼女の姿そのものが神聖なものであると語り掛けるような映像美にはやはり惹き込まれました。一瞬映り込むレンズフレアとか、透過光、明度の高さとか。そういったものも画面への印象に強く影響を与えていたのでしょうが、一番大きかったのはやはりこのカットに至るまでを決して急かず、一つも彼女の気持ちを取り溢さないようにとそれぞれの描写を紡いできたことなのだと思います。靴下を履き終わったあとの若干の溜めとかも素晴らしいですよね。この約一秒ほどの間に言葉にならない彼女の感情が詰まっているように感じられることが。芝居作画の凄み、間芝居の真骨頂ですし、その積み重ねが本作の骨子なのだとも感じます。

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くわえて、もう一つ本話において感動したポイントがありました。それはセーラー服を着た小路が第三者からはどう映っているのかということをとても印象的に描いていた場面です。まるでハーモニー演出のごとく煌びやかにメイクアップされた全身の画。妹の花緒にとっては特にそれそのもののように姉の姿が映っていたのだろうと思います。メタ的に言えば我々受け手に対して見せるためのメイクアップという意味性だけではなく、他の登場人物たちからは彼女がこう見えているんだよと知らせてくれる "その視界に映るもの" の提示。逆説的に言えば、それを意識的に感じさせてもらえたからこそ唐突に映ったメイクアップ作画に対しても、違和感を感じなかったのだろうと思います。ああ、こんな風に小路のセーラー服姿が花緒の目には映っているんだなって。それは本作が彼女たちの心情を中心に据えた映像構成をもって創られてきたことの賜物に他ならないのでしょう。

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そしてそんなワンシーンが再演的に描かれた登校シーンの序盤が本当に素晴らしく、感動しました。セーラー服を実際に着ていくか悩んでいた小路と、セーラー服を着て欲しいと願う花緒。ですが早朝、眠り眼をこすりながら瞼を上げればそこにはセーラー服を着た姉の姿がちゃんと映っていました。この時、きっと花緒の目には "あの日" と同じような小路の姿が映っていたんだと思えたことが、本当に嬉しかったのです。映像的には二度目のメイクアップを描いていたわけではありませんし、そうする必要がない場面ではあったのでしょうが、それでも前述したシーンで既に "それ*2" を描いていたからこそ、再演足るこのシーンでも妹の目には同じように姉の姿が映っているのだろうと思うことが出来る。描き終えているからこそ、示していたからこそ、次はそれがなくても分かるようになるという構成の妙。詫び寂びですよね、映像の。多くを語る (情報量を上げる) ところではそうするし、そうしなくてもいいところではしない。感動がどこまでもなだらかに繋がっていく面白さというか。一度鮮明に描いたことが地続き的に想起される瞬間って本当に良いなと思うんです。アバンと登校シーン*3の関係もそうですよね。行間の美学だなと思いますし、私にとっては扉を開け外に出ていく際のカットなども同様でした。

 

それも彼女の神聖性を示す幾つかの描写があったからこそ扉から零れる陽を浴びる彼女に対し、「ああ、そうだよな」と思えたというか。セーラー服を初めて着たときの彼女の純真さ、そしてセーラー服を着て行こうと決め外へ駆け出す際の彼女の心根の強さ。ーーああ、そういう彼女の真っ直ぐさに惹かれるのだろうし、それを映像に起こすからこそあんなにも美しい絵になるんだろうな、とか。小路の神聖性ってその容姿だけでは決してなくて、そういった内面にあるんだろうな、とか。そんな風に何度も何度も。「ああ、そうだよな」「だからこそなんだな」と、理解や感情を反芻させてもらえる作品に出会えた喜びを今はただ噛み締めていますし、だからこそなのか私自身にとって本作がとても大切な存在になるような予感が今はしています。

*1:もちろん原作を忠実に再現しているだけなのかも知れませんが

*2:メイクアップされた(いつも以上に綺麗に映った)姉の姿

*3:川に落ちるか、落ちないかの変化を描いたシーン