『明日ちゃんのセーラー服』1話の芝居、その視界に映るものについて

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本作の要ともなる存在、セーラー服。作品タイトルとしても使われるそれがどれほどの意味を帯びているのかということを知らしめていたのが本話において描かれた着替えのワンシーンでした。母親から手渡される制服に静かに伸ばされる手と、向けられる視線。大喜びするわけでもなく、無邪気に笑うわけでもない。そこにあるものがまるで神聖なものであるかのように、大きく見開かれ、きらきらと輝く瞳は彼女にとってそれがどれほど想い入れのある存在なのかということを強く裏づけていました。

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ともすれば淫靡さのまさる映像になってもおかしくないシーンですが、そういった前述足る映像の運びと感傷性を帯びたBGMも相まって、そうは感じさせない描写になっていたことがとても素敵でした。フェティシズムは残しながらも彼女の感情をどこまでも優先し描いていく映像美。吹き入れるなだらかな風の音、微かな衣擦れ、踏みしめる足音。そのすべてが彼女の内に灯る高揚感を表現してくれているようでした。体重がかかっていることが手に取るように分かる足元の芝居なども素晴らしく、軽くはない "重たさ" を感じる芝居だからこそ、より彼女の一挙手一投足に "いよいよだ" という心意気を感じてしまうのでしょう。

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ここの演出、芝居も素晴らしいです。わざわざマネキンからスカートを取るカットを入れることで、一つ一つの段階、その描写・瞬間こそが彼女にとっては掛け替えのないものになっていることを描いていく。それこそ "着替えを描く" ということだけに焦点をあてれば飛ばしても構わない描写だとは思いますが、それをアニメーションとして起こす際にカット数をふやしてまで入れる意味*1。それを本作はしっかりと携え、提示しているのでしょうし、そうやって明日小路という一人の少女の想いをどこまでも汲み上げていこうとするコンテワークにはやはり心酔してしまいます。瞬 (まばた) きに重たさを感じられる芝居のつけたも抜群で、スカートを手に取り心が動いている様をその挙動一つからさえ感じられることが、とても嬉しいです。

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揺れるプリーツのしなやかさ、端正な存在感。それを受け輝く瞳と回転するハイライト。微かに揺れるスカートの繊細な作画があるからこそ、後者のハイライトにより強く意味が帯びていくのだろうと思います。もちろん、このカット自体もフェティッシュさを感じられるものであることに間違いはありませんが、シーン全体やカットの繋ぎを見た時に主軸にあるものが鮮明として見えてくるのは、やはり今話の演出・その方向性が目指したところでもあるのでしょう。彼女の心をどこまでも優しく包み込むように。それをとても大切に、傷一つさえつけないように "見せる" 映像の手つきがとても素敵です。

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しなやかな髪の動きをスローでみせたり、セーラー服の主役足るスカーフを結ぶ手つきにしっかりとスポットを当てることも、全てそこに収束していくのだと思います。段階を踏むことで感情曲線をできるだけ緩やかに頂点まで運んでいく。良いなあと思いますよね。時間の流れとともに心が揺れ動いていく感じも、彼女のペースを崩さずにありのままを描いていく様子も。そのすべてを愛おしく感じられます。

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そして、おそらく本話では一番淫靡に映ったカット。しかし、彼女にとってはこの正装そのものが神聖なものであるのと同じように、本作においては今の彼女の姿そのものが神聖なものであると語り掛けるような映像美にはやはり惹き込まれました。一瞬映り込むレンズフレアとか、透過光、明度の高さとか。そういったものも画面への印象に強く影響を与えていたのでしょうが、一番大きかったのはやはりこのカットに至るまでを決して急かず、一つも彼女の気持ちを取り溢さないようにとそれぞれの描写を紡いできたことなのだと思います。靴下を履き終わったあとの若干の溜めとかも素晴らしいですよね。この約一秒ほどの間に言葉にならない彼女の感情が詰まっているように感じられることが。芝居作画の凄み、間芝居の真骨頂ですし、その積み重ねが本作の骨子なのだとも感じます。

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くわえて、もう一つ本話において感動したポイントがありました。それはセーラー服を着た小路が第三者からはどう映っているのかということをとても印象的に描いていた場面です。まるでハーモニー演出のごとく煌びやかにメイクアップされた全身の画。妹の花緒にとっては特にそれそのもののように姉の姿が映っていたのだろうと思います。メタ的に言えば我々受け手に対して見せるためのメイクアップという意味性だけではなく、他の登場人物たちからは彼女がこう見えているんだよと知らせてくれる "その視界に映るもの" の提示。逆説的に言えば、それを意識的に感じさせてもらえたからこそ唐突に映ったメイクアップ作画に対しても、違和感を感じなかったのだろうと思います。ああ、こんな風に小路のセーラー服姿が花緒の目には映っているんだなって。それは本作が彼女たちの心情を中心に据えた映像構成をもって創られてきたことの賜物に他ならないのでしょう。

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そしてそんなワンシーンが再演的に描かれた登校シーンの序盤が本当に素晴らしく、感動しました。セーラー服を実際に着ていくか悩んでいた小路と、セーラー服を着て欲しいと願う花緒。ですが早朝、眠り眼をこすりながら瞼を上げればそこにはセーラー服を着た姉の姿がちゃんと映っていました。この時、きっと花緒の目には "あの日" と同じような小路の姿が映っていたんだと思えたことが、本当に嬉しかったのです。映像的には二度目のメイクアップを描いていたわけではありませんし、そうする必要がない場面ではあったのでしょうが、それでも前述したシーンで既に "それ*2" を描いていたからこそ、再演足るこのシーンでも妹の目には同じように姉の姿が映っているのだろうと思うことが出来る。描き終えているからこそ、示していたからこそ、次はそれがなくても分かるようになるという構成の妙。詫び寂びですよね、映像の。多くを語る (情報量を上げる) ところではそうするし、そうしなくてもいいところではしない。感動がどこまでもなだらかに繋がっていく面白さというか。一度鮮明に描いたことが地続き的に想起される瞬間って本当に良いなと思うんです。アバンと登校シーン*3の関係もそうですよね。行間の美学だなと思いますし、私にとっては扉を開け外に出ていく際のカットなども同様でした。

 

それも彼女の神聖性を示す幾つかの描写があったからこそ扉から零れる陽を浴びる彼女に対し、「ああ、そうだよな」と思えたというか。セーラー服を初めて着たときの彼女の純真さ、そしてセーラー服を着て行こうと決め外へ駆け出す際の彼女の心根の強さ。ーーああ、そういう彼女の真っ直ぐさに惹かれるのだろうし、それを映像に起こすからこそあんなにも美しい絵になるんだろうな、とか。小路の神聖性ってその容姿だけでは決してなくて、そういった内面にあるんだろうな、とか。そんな風に何度も何度も。「ああ、そうだよな」「だからこそなんだな」と、理解や感情を反芻させてもらえる作品に出会えた喜びを今はただ噛み締めていますし、だからこそなのか私自身にとって本作がとても大切な存在になるような予感が今はしています。

*1:もちろん原作を忠実に再現しているだけなのかも知れませんが

*2:メイクアップされた(いつも以上に綺麗に映った)姉の姿

*3:川に落ちるか、落ちないかの変化を描いたシーン